「こんな大きいの、邪魔だろ。みんな急いでるんだよ」
言い終わると同時に、男はわざと肩をぶつけ、双子用ベビーカーを揺らした。上下二段に固定したチャイルドシートが、ぎしりと鳴る。私はシングルマザーだ。ひとりで、二人を連れて、大阪から東京へ戻るところだった。
ここは東海道新幹線の特大荷物スペース。事前予約済み。最後列の後ろ、規定のエリアにきちんと収めている。畳まずに固定できる上下構造の双子用ベビーカーは確かに大きい。でも通路は塞いでいない。表示もある。ルール通りだ。
それでも男は、私を見下ろすように鼻で笑った。
「自分さえ良けりゃいいって顔してんな」
周囲が一瞬だけざわついた。誰かが視線を逸らし、誰かが私を見る。私は声を荒げなかった。ただ、すぐ近くにいた車掌に穏やかに聞いた。
「こちらは特大荷物スペースですよね。私は予約済みです。置き方は合規でしょうか」
車掌は表示を確認し、はっきりと言った。
「はい、完全に合規です。問題ありません」
空気が一秒、止まった。
男は舌打ちし、私の隣の席にどさりと腰を下ろした。
よりによって、同じ最後列だ。
発車後まもなく、背後からぐっと圧がかかった。男が椅子を強く後ろに倒したのだ。座席の背がベビーカーに触れ、微かに振動が伝わる。眠っていた片方が眉をしかめた。
私は低い声で言った。
「これ以上後ろに倒さないでください。赤ちゃんに当たります」
男は振り返りもせず、吐き捨てた。
「は?俺は金払ってんだよ。倒す権利あるだろ」
さらに力を込め、無理やり背もたれを押す。
「子どもが怖いなら外に出るな。迷惑なんだよ」
その瞬間、どこかで小さく声がした。
「ひどい…」
誰かの呟きが、静かな車内に落ちた。
私は立ち上がらない。ただボタンを押した。ほどなくして乗務員と乗警が来る。
事情を聞いた乗警は、落ち着いた声で男に告げた。
「この位置は最後列です。これ以上の後傾はできません。無理に力をかける行為は安全妨害になります」
男が不満げに何か言い返そうとした瞬間、乗警の声が一段低くなった。
「破損や怪我があれば賠償対象です。記録します」
その言葉で、空気が変わった。
周囲の視線が一斉に男に向く。さきほど私を見ていた目とは違う。
冷たい、測るような視線だった。男は顔を赤くし、ぶつぶつと何かを言いながら、背もたれから手を離した。
それきり、椅子は一度も動かなかった。
双子は再び静かに眠った。上下に並ぶ小さな寝顔を見ながら、私は深く息を吐く。怒鳴らない。泣かない。謝らない。
私はルールを守っている。
東京に近づく頃、男は最後まで不機嫌そうに窓の外を睨んでいた。私は荷物を整え、ベビーカーの固定を外す準備をする。周囲の何人かが、そっと道を開けてくれた。
ドアが開く直前、私は一度だけ男を見た。
そして、静かに言った。
「子どもが迷惑なんじゃない。あなたの態度が迷惑なんです」
男は何も返せなかった。
私は二人を乗せたまま、まっすぐ前を向いてホームに降りた。規則は、ちゃんと味方をする。今日は、それを証明しただけだ。
引用元:,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]