あの瞬間、車内の空気が一段だけ冷えた。
向かいの男が、赤黒のスニーカーをそのまま座席に“ドン”と乗せた。靴底が布を押し潰す音が、妙に大きく聞こえた。
私は一番近い位置に座っていた。視線が集まる。誰も口に出さないのに、「言うのはお前だろ」と空気だけが背中を押してくる。
……でも、私はスマホに視線を落とした。
画面をスクロールする指だけが忙しく動いて、心臓だけが遅れて跳ねる。自分でも分かってる。逃げてる。
隣の年配の女性が、小さく咳をして、控えめに言った。
「……お兄さん、そこ、座るところよ」
男は聞こえないふりをして、足をさらに組み直した。膝が揺れて、靴先が小刻みに震える。わざとらしい。挑発みたいだった。
女性はそれ以上言えず、また黙る。車内は“見て見ぬふり”が連鎖していく。

そのとき、車内アナウンスが流れた。
「車内では、座席に足を乗せるなどの迷惑行為はおやめください。皆さまのご協力を——」
タイミングが良すぎて、逆に私の胸が痛んだ。
「今だろ、言えよ」
そう思ったのに、私は結局、何も言えなかった。
次の瞬間だった。男が足を組み替えた拍子に、スニーカーのつま先が私のバッグに当たった。
ガツン。
あ、と思った時には遅い。バッグの側面に、黒い汚れがべったり付いていた。
その汚れを見て、ようやくスイッチが入った。怒りというより、「もう無理だ」という感覚。逃げ続けた自分への情けなさが、逆に立ち上がらせた。
私は立って、いきなり怒鳴らなかった。
まず、紙ナプキンを一枚出して、男の前に差し出した。
「これ、使ってください。座席、汚れますから」
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