新幹線が減速しはじめた瞬間、車内の空気が一斉に「下車モード」に切り替わる。ガタガタと荷物棚が鳴って、通路に人が立ち、肩が触れ合う距離で皆が同じ方向を向く。
そのときまでは、確かにあった。
頭上の荷物棚。自分の座席の真上。紺色のチェスターコート。妻からの誕生日プレゼントで、買った日も、包みを開けた夜の会話も、袖を通したときの照れくささも、全部覚えてる。だから「ある/ない」だけは間違えようがない。
でも、到着のアナウンスが流れて、隣の人が立ち上がって棚からキャリーを下ろし、目の前を誰かのリュックが横切った――その一瞬、視界がふさがれた。
立ち上がって、いつもの動作で手を伸ばす。
……ない。
棚の金属の冷たさだけが指先に返ってきた。空気をつかむ感覚って、こんなに嫌なものなんだと初めて知った。
一拍遅れて心臓が跳ねる。血が耳の奥に集まって、音が遠くなる。息が浅くなる。
「え、ちょっと待って」
座席の下、足元、網ポケット。もちろんない。忘れ物?いや、違う。置いたのは棚だ。しかも数十分前まで視界に入っていた。
ここで、変に小声になると終わる。新幹線の停車時間は短い。迷ってる間に人は降りて、ドアが閉まって、取り返しがつかなくなる。
私は、あえて声を通した。吠えるんじゃない。通報するみたいに、はっきり。
「すみません!外套が、盗まれました!コートがないです!乗務員さん呼んでもらえますか!」
通路の人が一斉にこちらを見る。何人かが眉をひそめた。若い男性が「え?」と声を漏らした。隣席の女性は一瞬固まってから、棚を見上げて「本当に…?」と小さく言った。
すぐに、別の声が飛んできた。
「取り違えじゃないの?同じ色の人多いし」
「あなたが別の棚に置いたとか…」
分かる。そう言いたくなる気持ちも。穏便に済ませたい空気も。でも、私は首を振った。
「違います。ここです。真上です。ずっと見えてました。妻からの誕生日プレゼントなんです。絶対に間違えません」
“妻からの誕生日プレゼント”と言った瞬間、視線の温度が変わったのが分かった。単なる衣類の話じゃなくなる。
誰かの大事なものの話になる。
ドアが開きかける。車内がざわつく。降車客の流れが前へ動き出す。時間がない。
私は、通路の隙間から前方を見た。人、人、人。スーツ、キャリー、紙袋。そこで――一瞬、紺色が揺れた。
誰かの腕に、紺色のチェスターが無造作に引っかかっている。袖口がこちらに見えた。紛れもない濃い紺。私の視界の端で、その人が妙に早足になった。
反射的に声が出る。
「すみません!その紺のコート、ちょっと確認させてください!」
相手は振り向かない。むしろ速度を上げる。
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