飛行機に乗り込んで、席に座ってすぐだった。
前方で、妙な光景が目に入った。
中年の男が、いきなり座席の上に足を乗せたのだ。
しかも――靴のまま。
そのまま体を持ち上げ、座席のクッションの上に立ち上がる。
一瞬、機内の空気が止まった。
男は上の荷物棚に手を伸ばしている。
どうやら、奥に入れたスーツケースを引っ張り出そうとしているらしい。
だが、その姿勢はどう見ても異様だった。
靴底が、そのまま座席のクッションを踏みつけている。
そこは、これから誰かが座る席だ。
周りの乗客も気づいていた。
隣の席の女性が眉をひそめ、小さくため息をつく。
「うわ……」
誰かが小声で言った。
しかし、誰も直接は言わない。
日本ではこういう場面、なかなか口を出す人はいない。
だが、私はどうしても気になった。
少し迷ったが、思い切って声をかけた。
「すみません、そこ座る席ですよ」
男がゆっくりこちらを見た。
そして、面倒くさそうな顔で言った。
「届かないんだから仕方ないだろ」
言い方は完全にタメ口だった。
その態度に、周囲の空気がさらに重くなる。
それでも男は気にする様子もなく、座席の上に立ったまま荷物を引っ張っている。
そのときだった。
「お客様」
静かな声がした。
振り向くと、CAが立っていた。
柔らかな笑顔だったが、その視線はしっかりと状況を見ている。
「お荷物でしたら、私がお手伝いいたします」
CAは丁寧に言った。
「お客様が座席の上に乗らなくても大丈夫ですので」
機内の空気が、少しだけ和らぐ。
しかし――
男はすぐに顔をしかめた。
「いや、いい」
CAはもう一度言う。
「こちらでお取りしますので」
すると男は、苛立った声で言った。
「触らないでくれ」
一瞬、周りの乗客が顔を上げた。
男は続けた。
「中に大事なものが入ってるんだ」
その言い方は、まるで疑っているかのようだった。
CAは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔を戻した。
「かしこまりました。ただ――」
そして、静かに言った。
「座席の上に靴で乗る行為はお控えください」
その声は穏やかだったが、はっきりしていた。
周りの乗客の視線が、一斉に男に集まる。
通路の向こうの人まで見ている。
男は、その視線に気づいたのか、少し動きを止めた。
それでもまだ、意地のように荷物を引っ張る。
ガタッ、とスーツケースが棚から動いた。
男はそれを抱え、ようやく座席から降りた。
靴底が離れたクッションには、うっすらと汚れが残っている。
CAはそれを見て、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
男は何も言わない。
さっきまでの強気な態度は消えていた。
周りの視線が、まだ集まっている。
男は荷物を抱えたまま、自分の席に戻った。
そして――
何事もなかったかのように座った。
機内の空気が、ようやく元に戻る。
誰かが小さくため息をついた。
隣の席の女性が、私に小声で言った。
「助かりました」
私は苦笑いするしかなかった。
その後、離陸まで男は一言も話さなかった。
さっきまで偉そうだった男は、
何も言わず座席から降りた。
そして、機内の誰一人として
もう彼に話しかける人はいなかった。