仕事帰りの夕方。
車内はそこそこ混んでいた。
座席は埋まり、吊り革につかまる人も多い。
私はドア横に立ちながら、ぼんやりスマホを見ていた。
その時だった。
前方から、何人かの視線が同じ方向に集まっているのに気づいた。
なんだろうと思って見ると——
優先席で、若い男が二人掛けを一人で占領していた。
それだけでも十分迷惑なのに、
さらに信じられない姿勢だった。
両足を前の座席の背もたれに乗せ、靴底を天井みたいに突き出している。
しかも靴は泥だらけ。
座席の布地に黒い汚れがついていた。
周囲には高齢の女性、ベビーカーを押す母親、疲れたサラリーマン。
誰も座れない。
誰も注意できない。
男はイヤホンをして、スマホ動画を見ながらニヤついていた。
“俺に文句言える奴なんかいない”
そんな顔だった。
私は深くため息をついた。
こういう人は、誰かが言わない限り一生やめない。
ちょうど次の駅に近づき、電車が少し揺れた。
その瞬間——
男の片方の靴が、スポッと脱げた。
その靴は通路に転がり、私の足元まで来た。
周囲の乗客が一斉にそちらを見る。
でも誰も拾わない。
男はイヤホンを外し、初めて焦った顔で叫んだ。
「おい、それ取って」
……は?
拾って当然、みたいな口調。
私は靴を見下ろしたまま答えた。
「その前に、座席から足下ろしたらどうですか?」
車内が静まった。
男は睨みつけてきた。
「関係ねぇだろ」
すると後ろから、年配の男性が低い声で言った。
「関係ある。そこ優先席や」
さらに別の女性も続いた。
「座れない人、ずっと立ってますけど」
空気が変わった。
さっきまで黙っていた乗客たちが、一気にこちら側についた。
男は舌打ちしながら足を下ろした。
でもまだ強がる。
「で?靴返せや」
私は靴を拾い上げ、窓の外を見た。
ちょうど電車は次の駅へ滑り込むところだった。
ドアが開く。
私は笑顔で言った。
「その足、次の駅で降ろしますね」
そして靴をホームへ、ポンと置いた。
投げつけたわけじゃない。
丁寧に、ホームの端へ。
一瞬、車内が凍る。
次の瞬間——
「はぁぁ!?」
男が飛び起きた。
片足靴下のままドアへ走る。
でも閉まるベルが鳴る。
プシュー。
ドアが閉まり、男は靴を追ってホームに降りるしかなくなった。
そのまま片足靴下、片足裸足でホームに立ち尽くす姿が窓越しに見えた。
車内の誰かが吹き出した。
それをきっかけに、あちこちで笑いが漏れる。
さっきまで偉そうだった男は、
閉まったドアの向こうで何か叫んでいた。
でも聞こえない。
電車はゆっくり発車した。
優先席には、先ほど立っていた高齢の女性が座った。
その隣に、赤ちゃんを抱いた母親も腰を下ろした。
女性が私に小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
私は首を振った。
「みんな思ってたこと、言っただけです」
その時、年配の男性が笑いながら言った。
「いや、最後の一手はあんたしかできんわ」
車内にまた笑いが起きた。
それ以来、私は思う。
非常識な人ほど、
誰も何も言わない優しさを、
“自分が偉い証拠”だと勘違いする。
でも違う。
ただ、周りが大人だっただけだ。
その日、男は初めて知ったはずだ。
公共の場で好き勝手した代償は、思ったより恥ずかしい。