朝、玄関で靴を履かせる時点で、もう嫌な予感はしていた。
二歳の娘は、私の服の裾をぎゅっと握っていた。
「ママ、いっしょ?」
小さな声だった。
その一言だけで、胸の奥がきゅっと縮む。
でも、時計は容赦ない。
仕事は待ってくれない。
洗濯物も、保育園の支度も、駅までの時間も、全部が私を急かしてくる。
私はできるだけ明るい声を作った。
「夕方、迎えに来るよ。おうち帰ったらいっぱいお話しようね」
娘はうなずいた。
でも、目にはもう涙がたまっていた。
保育園の玄関に着くと、娘の手の力がさらに強くなった。
先生が優しくしゃがみ込む。
「おはよう。今日も遊ぼうね」
その瞬間、娘は私の足にしがみついた。
「ママがいい!」
廊下に響く泣き声。
他の子たちは次々と部屋へ入っていく。
私は笑顔を作ったまま、先生に娘を預けた。
けれど、引き離すような形になった。
その感触が、仕事中もずっと手に残った。
パソコンの画面を見ていても、娘の泣き顔がちらつく。
会議中も、ふと考えてしまう。
今も泣いているのかな。
ちゃんとご飯を食べただろうか。
私のことを、置いていったと思っていないだろうか。
仕事だから仕方ない。
そう何度も自分に言い聞かせた。
でも、仕方ないで片付くほど、母親の心は便利にできていない。
夕方、迎えに行くと、娘は先生のそばでブロックを持っていた。
私を見つけた瞬間、顔がぱっと変わった。
「ママ!」
走ってきて、私の膝に飛びつく。
その重さに、今日一日分の緊張が少しだけほどけた。
先生が連絡帳を渡してくれた。
「今日、すごく頑張っていましたよ」
その言い方が、少しだけやわらかかった。
家に帰ってから、私は娘を先に座らせ、荷物を片づけた。
そして、何気なく連絡帳を開いた。
いつものように、排便の状態、食事、遊びの様子。
その欄に、先生の手書きの文字が並んでいた。
「今日も涙が止まらない様子だった〇〇ちゃん」
私はそこで手を止めた。
やっぱり泣いていたんだ。
胸が痛くなった。
でも、続きの文章を読んだ瞬間、息が止まった。
「ママ、おうち帰ったらしゃべくる?」
私は思わず声に出して読んだ。
しゃべくる。
娘はまだ「しゃべる」をうまく言えない。
お話しすることを、いつも「しゃべくる」と言う。
朝、私が言った言葉を覚えていたのだ。
おうちに帰ったら、いっぱいお話しようね。
たったそれだけの約束を、二歳の娘は一日中握りしめていた。
さらに、先生の文字は続いていた。
「すなあそびあるんで、ごはんたべたらしゃべくる、と自分に言い聞かせて頑張っていました」
私は連絡帳を持ったまま、動けなくなった。
二歳だ。
まだ靴下だって片方裏返しに履く。
スプーンだって落とす。
眠いと床に寝転ぶ。
そんな小さな子が、泣きながら自分に言い聞かせていた。
砂遊びをしたら。
ごはんを食べたら。
そしたら、ママとしゃべくる。
順番を作って、寂しさを耐えていた。
私は台所で泣きそうになった。
いや、ほぼ泣いた。
娘は横で、何も知らない顔をしてお茶を飲んでいた。
口のまわりに水をつけたまま、私を見て言う。
「ママ、しゃべくる?」
その一言で、完全に負けた。
私は娘を抱きしめた。
「うん。しゃべくる。いっぱいしゃべくる」
娘は満足そうに笑った。
その笑顔が、また痛かった。
先生の連絡帳には、最後にこうも書かれていた。
遊んでいる時には泣きやみ、「もう一回しゅる」と話していた、と。
泣いて、我慢して、少し遊んで、また頑張って。
二歳なりに、ちゃんと一日を戦っていた。
私は仕事で疲れた顔をして帰ってきたつもりだった。
でも本当に戦っていたのは、娘のほうだったのかもしれない。
大人はすぐに言う。
「子どもはすぐ慣れる」
「泣くのも最初だけ」
「保育園に行けば成長する」
たしかにそうだ。
でも、その成長の途中には、こんな小さな我慢がある。
こんな小さな独り言がある。
こんな健気すぎる約束がある。
その夜、私は家事を少しだけ後回しにした。
洗濯物は山のまま。
食器も流しに置いたまま。
でも、娘と並んで座った。
「今日、何して遊んだの?」
娘は得意げに言った。
「すな。もういっかい、しゅる」
私は笑いながらうなずいた。
この子は今日、ちゃんと頑張った。
そして私は、朝の約束を守らなければいけない。
二歳児の「しゃべくる」は、思ったより重い。
大人の予定より、ずっと大事だった。