トイストーリーホテルに泊まった初日、私は完全に浮かれていた。
ロビーに入った瞬間から、もう大人の理性は半分くらい置いてきた。
壁も床も天井も、全部が映画の世界みたいで、どこを見ても可愛い。
部屋に入れば、さらにだめだった。
ベッドも、壁紙も、アメニティも、いちいちテンションを上げてくる。
「これはもう、今日は何しても楽しい日だ」
そう思っていた。
ただ、一つだけ誤算があった。
私は水を飲みすぎる人間だった。
パークで歩き回った。
写真を撮った。
はしゃいだ。
甘いものも食べた。
ホテルに戻ってからも、喉が渇いて仕方なかった。
部屋に置いてあった水を一本。
風呂上がりにもう一本。
寝る前にまた一口、のつもりが半分。
朝起きて、残りを全部。
気づけば部屋の水は、きれいに消えていた。
「まあ、ホテルの水だし」
そう思っていた。
深く考えていなかった。
だって旅行中だ。
水くらい飲む。
人間だもの。
ところが二日目、部屋に戻った私は固まった。
テーブルの上に、ピンク色の紙が置かれていた。
可愛い便箋だった。
手書きの文字。
小さなイラスト。
封筒の絵みたいな飾りまである。
最初は普通の案内かと思った。
でも、よく見ると私宛てのメッセージだった。
私はスマホを取り出した。
Googleレンズを起動した。
翻訳画面に出てきた文字を読んだ瞬間、変な声が出た。
「お客様、こんにちは」
そこまではいい。
問題はその続きだった。
どうやら、部屋を清掃してくれたキャストさんが、私の水の消費量に気づいたらしい。
そして、こういう内容のことが書かれていた。
「お水が足りなかったようなので、追加でご用意しました」
私はその場で膝から崩れそうになった。
見られていた。
いや、正確には見守られていた。
私が初日に水を飲み尽くした事実が、ホテル側に静かに把握されていた。
事件現場のように空になったペットボトルたち。
それを見た清掃の方が、
「あ、この人、水めっちゃ飲むタイプだ」
と判断したのだろう。
恥ずかしい。
でも、優しい。
優しすぎる。
テーブルには、前日より多めの水が置かれていた。
ただ補充されているだけではない。
わざわざ手書きのメッセージまで添えられている。
「足りなければ言ってくださいね」
そんな空気が、ピンクの紙からにじんでいた。
私は笑ってしまった。
トイストーリーホテルで、まさか自分の水分摂取量に気遣われるとは思わなかった。
しかも二日目で。
早い。
適応が早すぎる。
ホテルのホスピタリティが、私の給水ペースに追いついてきた。
いや、追い越してきた。
普通、ホテルの感動ポイントといえば、部屋の可愛さとか、景色とか、キャラクター感とか、そういうものだと思う。
でも私の場合、一番刺さったのは水だった。
水と手紙。
そして「あなた、昨日かなり飲みましたね」と言わずに察してくれる優しさ。
これが本当の夢の国周辺サービスか。
私は便箋を持ったまま、しばらく黙っていた。
旅先では、ちょっとした気遣いが妙に心に残る。
大げさなことではない。
豪華なプレゼントでもない。
ただ、
「この人には水が多めに必要そうだな」
そう思って、そっと増やしてくれる。
それだけで、人はこんなに嬉しくなる。
ただ、同時に少し怖くもなった。
私の行動、全部バレてる?
水を飲み尽くしたこと。
ゴミ箱に空きボトルが並んでいたこと。
夜中に追加で飲んだであろう痕跡。
部屋の中で一人、完全に給水所みたいになっていたこと。
清掃の方は何も言わない。
でも、すべてを見ている。
そして怒らない。
静かに水を増やす。
プロである。
私は追加された水を見つめた。
正直、また飲める自信があった。
昨日あれだけ飲んだのに、今日もパークを歩けば絶対に喉が渇く。
つまり、この気遣いは完全に正解だった。
悔しいくらい当たっている。
私はピンクの手紙を写真に撮った。
友人に送ると、すぐ返信が来た。
「どんだけ飲んだん?」
そこじゃない。
いや、そこなんだけど。
私は反論しようとして、やめた。
だって事実だから。
その夜、私は追加された水をありがたく飲んだ。
一口飲むたびに、なんだか見守られている気分になった。
もうこれはただの水ではない。
気遣い入りの水だ。
二日目の私は、前日より少しだけ上品に飲もうとした。
でも、結局かなり飲んだ。
人間、急には変われない。
チェックアウトの日、私はあのピンクの紙を大事に持ち帰った。
ホテルの思い出として。
そして、自分が水を飲みすぎる人間だという証拠として。
トイストーリーホテルで一番忘れられない出来事。
それは豪華な部屋でも、可愛い内装でもなく。
「この客、水が足りなそう」と見抜かれ、二日目にそっと追加されていたことだった。
夢の国の近くで、私は魔法を見た。
ただし、魔法の中身はミネラルウォーターだった。