朝、コーヒーを入れようと冷蔵庫を開けた瞬間、私は手を止めた。
ピンクの付箋が一枚、ぺたりと貼ってある。
そこには、見覚えのある雑な字でこう書かれていた。
やっぱりなんかムカつくからこの間のサイゼ代払って1400円
……は?
一瞬、意味が分からなかった。
サイゼリヤ。
先週、家族三人で行った夕飯だ。
私と夫、そして小学生の息子。
その時、夫はレジで普通に支払いをしていた。
私は「ありがとう」と言ったし、その場で何も言われていない。
それが今さら、“ムカつくから払え”?
しかも1400円。
どう考えても、息子の分まで入っている。
つまりこの人、自分の子どものご飯代まで計算して、朝から妻に請求してきたのだ。
怒りより先に、情けなさが来た。
たった1400円。
でも、問題は金額じゃない。
私は家族なのに、この人の中では“回収先”なんだ。
その日の朝、夫は何事もなかったように出勤した。
「今日帰り遅いから」
そう言い残して。
私は付箋を剥がし、しばらく眺めていた。
そして、あることを思いついた。
その週末、義母の誕生日で、義実家に集まる予定だった。
夫の両親、義妹家族、私たち家族。
毎年それなりに賑やかな食事会になる。
私は、財布に1400円ぴったり入れて家を出た。
食事会は和やかに始まった。
義母は機嫌よく笑い、息子は従兄弟とはしゃいでいる。
夫も外面だけはいい。
よくしゃべり、よく気が利く“いい息子”を演じていた。
デザートが出た頃、私は静かに立ち上がった。
「そういえば、渡すものがあった」
夫が不思議そうにこっちを見る。
私は封筒をテーブルの上に置いた。
「はい。サイゼ代1400円」
場が、一瞬で止まった。
「……え?」
夫の顔が固まる。
義母がきょとんとした顔で聞いた。
「なにそれ?」
私はにっこり笑って答えた。
「この前、家族でご飯行った時の請求です。冷蔵庫に貼ってありました」
そのまま、スマホの写真を見せた。
例の付箋。
義妹が吹き出した。
「うそでしょ(笑)」
義父は眉をひそめた。
「お前、子どもの飯代まで請求したのか?」
夫の顔がみるみる赤くなる。
「いや、あれは冗談っていうか……」
私は即座に返した。
「“ムカつくから払え”って冗談なんだ?」
義母の笑顔が消えた。
「○○ちゃん(私)にそんなことしたの?」
夫はしどろもどろになった。
「いや、その……なんとなく……」
義父が低い声で言った。
「家族に請求書貼る暇あるなら、もっと父親らしいことしろ」
痛烈だった。
夫は完全に黙った。
その場の空気は重かったけれど、不思議と私はスッキリしていた。
ずっと胸につかえていたものが、ようやく落ちた気がした。
帰宅後。
夫は珍しく自分から話しかけてきた。
「……悪かった」
私は静かに答えた。
「1400円の問題じゃないよ」
「私と子どもを、“払わせる相手”として見たことが問題なの」
夫は何も言えなかった。
翌日、冷蔵庫にまた付箋が貼ってあった。
ごめん。今度、ちゃんと家族で行こう。俺が出します。
私はそれを見て、笑ってしまった。
もちろん、すぐには許さない。
でも少なくとも——
1400円で失いかけたものの大きさは、やっと分かったらしい。
それ以来、夫は細かい請求をしなくなった。
息子にも前よりずっと優しくなった。
そしてたまにサイゼに行くたび、義妹にこう言われる。
「今日は請求書なしで大丈夫?(笑)」
そのたび夫は、黙ってドリンクバーを取りに行く。
結局——
ケチな男が一番失うのは、お金じゃない。信頼だ。