朝の空気はまだ冷たかった。私は沖縄行きの飛行機に乗っていた。子どもは当時5歳、体が小さく、座席の幅やシートベルトの位置にちょうど収まるような状態だった。背もたれに背をつけると太ももが座面の角にぶつかり、膝が曲げられない。小さな体を無理やり座らせる私の手は、汗で少し湿っていた。
飛行機が動き出すと、子どもは少しずつ体を揺らした。足が前の背もたれに触れるたび、前の座席の人に蹴ったかのように見える。隣の親子もちらちらこちらを見ている。私は焦る。靴を脱がせ、座席を少し斜めにしても、足の動きは止まらない。子どもは身動きできず、しかし感覚的には「蹴っていない!」と怒りを抑えきれず、ピリピリしている。
そしてその瞬間、前の座席に座る女性のご主人が私に声をかけた。「蹴るのやめさせてください」。冷たい指摘に、私の心臓は一瞬止まった。申し訳なさと、子どもが悪くない苛立ちで胸が痛む。言い訳もできず、謝るしかなかった。
座席を工夫して斜めに座らせる。背中をそっとさする。手を握って、動かないようにする。しかし、本人は身動きできないことに不満を抱き、私に向かって小さな怒りをぶつける。
蹴っていない。なのに、前の人には蹴ったように見える。飛行機の中の空気が、一気に張り詰めた。
時間は止まったように感じられた。1時間弱、子どもを動かさないように、手で支えながら、体を斜めにしたり座面に寄せたり。少しでも動くと、前の人に誤解される。子どもの小さな手足は、私の指先に触れて、微かに震える。心配と苛立ち、罪悪感と疲労が同時に押し寄せる。飛行機のエンジン音が耳に響き、私は汗をかきながら座席に押しつけるように子どもを抱えた。
周囲の視線が痛い。ちらちら、じろじろ。子どもの小さな動きが、前の座席にとっては蹴る動作に見える。私は必死に「違うんです、蹴ってないんです」と心の中で叫ぶ。声は出せない。飛行機の中、緊張が張り詰める。外の窓の光は淡く、何も変わらない。しかし私の心の中は戦場のようだった。
やっと目的地のアナウンスが流れ、私の体はほっとした。子どもはぐったりと座席に沈む。前のご主人は無言で、しかし不満そうな視線を向けたまま。私も息を吐く。全てが終わったわけではないが、少なくとも物理的な緊張は解けた。
この経験は今でも鮮明に覚えている。小さな子どもを守ろうとする親の必死さと、誤解される苦しさ。飛行機の座席は狭く、体も小さく、しかし周囲の視線は無情だ。蹴っていないのに蹴ったように見える現実。理不尽だ。しかし、それが日常なのだと知る。子どもの安全を守る責任と、他人への配慮、両方を一度に抱える苦しさ。私はその日、身をもってそれを学んだ。