「また……ある」
朝、車に乗ろうとした瞬間、私は足を止めた。
自宅の駐車スペースの隅に、あのシルバーカーが今日も置かれている。
しかも今回は、前よりも内側。
明らかに“遠慮がなくなっている”。
最初は、本当にたまたまだと思っていた。
でも違った。
一度、二度、三度——気づけばほぼ毎日。
完全に“ここに置いていい場所”として認識されている。
理由は分かっている。
家の目の前がバス停だから。
そのおばあさんは、うちの敷地にシルバーカーを置き、塀に腰掛けてバスを待ち、そのまま出かける。
帰ってきたら、また普通に取りに来る。
——まるで、自分の家の延長みたいに。
最初は我慢していた。
「高齢者だし……」
「困ってるのかも……」
「これくらいなら……」
そうやって、何度も自分に言い聞かせた。
でも、ある日。
事件が起きた。
いつも通り車を出そうとした瞬間、急に後ろから声がした。
「危ないわね!!」
振り返ると、おばあさんが立っていた。
「見えてなかったの!?ぶつかるところだったわよ!」
——え?
いや、そこにいるって分からなかったし、そもそもここは私の敷地なんだけど。
でも、おばあさんは止まらない。
「最近の人は本当に危ないわね!」
完全に“被害者”の顔。
その瞬間、背筋がゾッとした。
——これ、もし本当に接触してたら?
完全に私が悪者にされてたんじゃない?
今までのモヤモヤが、一気に怒りに変わった。
その日の夕方。
私は、あえておばあさんが来る時間に外に出た。
そして、シルバーカーを置こうとした瞬間に声をかけた。
「ここ、うちの敷地なんですけど」
おばあさんは一瞬だけこちらを見て、すぐに言った。
「端っこだからいいでしょ?」
——やっぱりこの返し。
しかも、悪びれた様子は一切ない。
「毎日使ってるわけじゃないし」
「ちょっと置くだけよ」
「そんな細かいこと言わなくても」
全部、言い訳。
でも——その全部が“アウト”だ。
私は一歩も引かなかった。
「ここで何かあったら、責任は全部こちらに来るんです」
おばあさんは少しだけ顔をしかめた。
でも、すぐに言い返してきた。
「そんな大げさなこと言って」
——その一言で、完全にスイッチが入った。
私はその場でスマホを取り出し、電話をかけた。
「すみません、自宅敷地内に無断で荷物が置かれていて、持ち主の方が毎日侵入してくる状況なんですが、安全面で不安があるので相談したいです」
おばあさんの顔色が変わる。
さっきまでの余裕が、一瞬で消えた。
「ちょっと待って、それはやりすぎじゃない?」
私ははっきりと言った。
「やりすぎじゃありません。もう何度も続いているので」
さらに続けた。
「もし次にここに置かれていたら、“放置物”として正式に対応してもらいます」
完全に空気が変わった。
数秒の沈黙のあと——
おばあさんは何も言わずにシルバーカーを掴み、そのまま道路側へ引いていった。
その背中は、さっきまでの“強気な人”とは別人みたいに小さく見えた。
それ以来。
あのシルバーカーが、うちの敷地に置かれることは一度もない。
正直、少しだけ罪悪感はある。
でも——あの日分かった。
“優しさ”って、相手の非常識を許すことじゃない。
むしろ——
何も言わない方が、もっと大きなトラブルを生む。
もしあのまま我慢していたら。
きっと今頃、私は“加害者”にされていた。