駅から実家まで、たった600m。
距離だけ見れば笑われるかもしれない。
でもその日、母の足はもう限界だった。
息を吐くたびに痛そうで、立っているだけで額に汗がにじむ。
「大丈夫」と言い張る人ほど、本当は大丈夫じゃない。
だから私は迷わずタクシーを止めた。
短距離? 知ってる。
でも、歩けない人の600mは、別の世界だ。
ドアが閉まる。
私は住所を告げる。
その瞬間。
運転手が“無音”になった。
返事ゼロ。
「はい」も「了解」もない。
車内の空気だけが冷えた。
最初は気のせいだと思った。
疲れてるのはこっちだし、相手だって忙しい。
そう言い聞かせた。
でも、母が小さな声で言った。
「すみません、そこを曲がっていただけますか」
返事、ゼロ。
もう一度。
「この辺りで降ろしても大丈夫です」
返事、ゼロ。
まるで私たちが存在していないみたいだった。
それでも車は進む。
しかも、微妙に遠回りする。
たった600mのはずなのに。
角を一つ多く回り、信号の多い道へ入る。
私は窓の外と、母の膝と、運転席の後頭部を交互に見た。
母は痛みをこらえていた。
私の横で、呼吸が浅くなる。
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