今朝、俺は「優先席」という言葉の意味を、もう一度叩き込まれた。
朝の通勤ラッシュ。ホームから押し流されるみたいに車内へ入って、気づいたら優先席の端に体が吸い寄せられていた。座るつもりなんてなかった。けど、足首が限界だった。昔の捻挫の古傷が、寒さと疲労で一気にぶり返して、立っているだけで足の裏から熱い針が突き上げてくる。息を整えるために、ほんの少しだけ腰を下ろした。たった二駅だけ。そう自分に言い聞かせて。
その瞬間だった。
目の前に立った女が、俺の顔を見下ろして言った。
「……え? なんでまだ座ってるの?」
声は大きくない。けど、刺さる言い方だった。周りに聞かせるためじゃなく、俺だけを狙って刺すための声。俺は反射的に足首を押さえたまま、低い声で返した。
「すみません、足……怪我してて」
彼女は鼻で笑った。薄い笑いで、空気を軽くするんじゃなく、俺の言葉を軽くした。
「誰が信じるの」
その一言で、車内の温度が変わった。視線が集まる。圧が来る。優先席ってだけで、勝手に“正解”が決まってる。俺が座ってるという事実だけで、俺は「悪」になれる。
隣の中年の男が、待ってましたみたいに口を挟んだ。
「若いのにさぁ、そういうのはやめなよ。みっともない」
みっともないのは、足じゃなくて俺の存在らしい。痛みより先に、恥が来た。耳が熱くなる。胸の奥がぎゅっと縮む。説明すればするほど、言い訳に見える。俺はその視線に耐えられなくて、歯を食いしばりながら立ち上がった。
「……どうぞ」
足首がズキンと鳴った。痛みで一瞬視界が白くなる。けど、立ち上がった俺に、彼女は礼も言わずに座った。座りながら小さく、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「やっとだよ。これくらい当たり前でしょ」
その瞬間、手が震えた。怒りというより、情けなさだった。「当たり前」の名札で、人の痛みを踏みつけられるのか。俺は黙って吊り革を握った。握る指先まで冷たかった。
さらに地獄は続く。
彼女はスマホを取り出して、こちらに向けた。レンズが俺を捉える角度。狙いがわかる。こいつ、撮る気だ。
「こういう人、いるんだよね。優先席に座って平気な顔してるやつ。晒した方がいいよね」
頭がカッと熱くなった。
けど、ここで声を荒げたら終わりだ。今の空気は、俺が少しでも強く出た瞬間に「逆ギレ」へ変換される。男が女に言い返す、それだけで悪役の完成だ。
だから、俺は吠えなかった。
ゆっくり、鞄から取り出した。折りたたんだ診断書。テーピングの痕が残るサポーター。見せびらかすためじゃない。言葉が通じない相手に、証拠だけを置くため。
「撮っていいですよ」
俺は淡々と言った。自分でも驚くほど声が落ち着いていた。
「でも、あなたが俺の顔を撮って拡散するなら、俺も警察に行きます。
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