電車って、たまに「人の優しさ」が見える場所でもあるけど、同じくらい「見て見ぬふり」も見える場所だと思う。
その日も帰宅ラッシュで、座席はほぼ埋まっていて、立っている人の肩が小さく揺れていた。
そんな中、ドアが開いて、妊婦さんが入ってきた。
お腹の前でそっと手を重ねて、足元は慎重。表情は穏やかだけど、ほんの少しだけ緊張しているのが伝わる。隣には旦那さんがいて、周りをキョロッと見た次の瞬間――動きが速い。
空いている席を見つけるなり、すっとそこへ行って確保して、妊婦さんを誘導した。
「あ、ちゃんと見てる人だ」って、私はその時ほっこりしていた。
“席を譲られるのを待たせない”って、それだけでも十分に優しい。
妊婦さんが座って、旦那さんは「よし」と一息ついた顔をした。
……そして、そのまま、少し離れた場所に立とうとした。
その瞬間、私はふと想像してしまった。
この混雑の中、旦那さんがドア付近に立ったら、人の流れに押されて、妊婦さんの隣には別の人が座るかもしれない。
妊婦さんは座れたとしても、隣に知らない人が密着して、旦那さんは離れた場所。
“席を確保したのに、守れない距離”が生まれる。
でもね、こういう時に限って車内って静かなんだ。
誰も悪気はない。誰も間違ってない。
ただ、「そこまで考える人」が少ないだけ。
そのとき――妊婦さんの隣に座っていた、白髪の老紳士がゆっくり顔を上げた。
綺麗な白髪に、中折れのハット。ジャケットは皺ひとつなく、背筋がまっすぐ。
存在感はあるのに、押しつけがましさが一切ない。映画のワンシーンみたいな人が、本当にいるんだ、って思った。
老紳士は、旦那さんに向けて、静かに微笑んだ。
そして、声を荒げるでもなく、説教くさくもなく、たった一言だけ。
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