相手は知らなかった。
私の夫が警察官だということを。
高速道路のサービスエリアでの出来事だった。
少し休憩して、さあ出発しようと車に戻ったら――出られない。
目の前に一台、堂々と「駐車禁止」の場所に停まっているレクサス。
白線も無視、標識も無視。
後ろにも車が来ていて、完全に塞がれていた。
私は深呼吸して、その車の持ち主を待った。
数分後、中年の男性が戻ってきた。
私はできるだけ穏やかに言った。
「すみません、ここ駐車禁止なので、うちの車が出られないんです」
その瞬間だった。
「知ってるよ!うるせぇんだよ!」
一気に空気が変わった。
「バカヤロー!このクソばばぁ!」
耳を疑うような暴言。
しかもわざわざ車から降りてきて、スマホを向けながら怒鳴る。
「お前みたいなのが一番うぜぇんだよ!」
周囲の人が振り向く。
私は何も言い返せなかった。
ただ、ルールを守ってほしいと言っただけだ。
その時、背後から低い声がした。
「どうした?」
トイレに行っていた夫が戻ってきたのだ。
私の顔と状況を見て、すぐに理解したらしい。
夫は相手の男性を真っ直ぐ見て、静かに言った。
「ここ、駐車禁止ですよ」
さっきまで怒鳴っていた男性が、夫を見る。
夫は続けた。
「それと、今の暴言は録音されています。
私は現職の警察官です。勤務中ではありませんが、職務上、こういった威圧行為は見過ごせません」
その瞬間。
男性の顔色が変わった。
さっきまでの威勢はどこへ行ったのか、目に見えて動揺している。
「……え?」
夫は淡々としていた。
「この場で問題を大きくしたくなければ、まず車を移動してください。
それから、先ほどの発言について説明を」
声を荒げない。
怒鳴らない。
それが逆に、圧力になっていた。
男性は急に小さな声で言った。
「……すみません」
さっきの大声が嘘のようだった。
「今すぐどかします」
慌てて車に乗り込み、エンジンをかける。
去り際、窓を少し開けて、もう一度言った。
「申し訳ありませんでした」
そして、逃げるように発進していった。
さっきまで「クソばばぁ」と怒鳴っていた人間とは思えない。
夫は私に向き直って言った。
「怖かったな」
その一言で、溜め込んでいた悔しさがこみ上げた。
私は強いわけじゃない。
喧嘩を売ったわけでもない。
ただ、駐車禁止だと伝えただけ。
それなのに、相手を見て態度を変える人間。
女性一人には強く出る。
男性が出てきたら急にしおらしくなる。
本当に情けないのは、どっちだろう。
夫は最後に一言だけ言った。
「ルールを守らない人ほど、権威に弱い」
サービスエリアを出ながら、私は思った。
怒鳴る人が強いわけじゃない。
大きな声が正義じゃない。
本当に強いのは、冷静さだ。
そして――
弱そうな相手にだけ強く出る人ほど、
本当は一番弱い。
あなたなら、
あの場でどうしますか。