あの日、私はお風呂から上がった。
リビングに戻ると、長男が小声で言った。
「ママ……パパが叩いた」
その視線の先に、1歳の娘。
頬に、くっきりと手の形。
一瞬、音が消えた。
「……何したの?」
私が聞くと、夫はソファに座ったまま吐き捨てた。
「大げさだろ。泣き止まなかったんだよ」
娘はまだ言葉も分からない。
理解もできない。
それでも、男の力で叩いた。
以前から前兆はあった。
壁を殴る。
物を投げる。
怒鳴る。
でも、子どもには手を出さないと思っていた。
私の甘さだった。
「しつけだ」
「甘やかすな」
その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。
「一歳に何が分かるの?」
長男はドアの陰から、全部見ている。
これは夫婦喧嘩じゃない。
子どもの前で起きた、暴力だ。
私はスマホを取った。
警察に通報して、
「おい、やめろ。頭おかしいのか?」
「家庭壊す気か?」
私は静かに言った。
「壊したのはあなた」
電話口で事情を説明している間も、夫は強気だった。
「大げさに言うな」
「ただの一発だろ」
でも、インターホンが鳴った瞬間、空気が変わった。
警察官が2人。
分けられて事情聴取。
娘の頬を見た警察官の表情が固まる。
「写真を撮らせてください」
その一言で、夫の顔色が変わった。
さっきまでの強気はどこへ行ったのか。
「そんなつもりじゃ…」
「軽く触れただけで…」
さっきまで「しつけ」って言ってたよね?
私は何も言わなかった。
長男も別室で話を聞かれた。
戻ってきたとき、小さな声で聞いてきた。
「ママ……パパ、もう帰ってこないの?」
胸が締めつけられた。
「ママが守るから大丈夫」
その夜、夫は同行された。
48時間の拘束。
私は娘を病院へ連れて行き、診断書を取った。
「これは明確な打撲です」
医師の言葉が、私の迷いを消した。
その後、児相からの連絡。
事情確認。
家庭環境の聞き取り。
現実は重い。
でも、私はもう戻らない。
夫から何十件も着信。
「悪かった」
「撤回してくれ」
「会社に知られたら終わる」
会社。
そう、結局それだ。
数日後、会社に警察から連絡が入ったらしい。
自宅での暴力、児童虐待の疑い。
彼は一時出勤停止。
「頼む、離婚だけはやめてくれ」
私は答えた。
「あなたは父親失格です」
離婚届にサインをした。
実家に戻った夜。
娘は安心したように眠った。
長男が布団の中で言った。
「ママ、強いね」
私は初めて泣いた。
怖かった。
不安だった。
生活もどうなるか分からない。
でも、はっきりしていることがある。
あの瞬間、私は妻をやめた。
私は母親になった。
守るべきものを間違えなかった。
それだけでいい。