「通れないんですけど?」
思わず声が出た。
東海道新幹線の車内、走行中。トイレに立とうと通路へ出た瞬間、私は立ち止まった。ドア付近から通路中央にかけて、大型のスーツケースがいくつも並び、完全に道を塞いでいる。人ひとり横向きでやっと通れるかどうかの幅しかない。
ここは荷物置き場ではない。ましてや出入口付近だ。
私は周囲を見回した。
「これ、どなたのですか?」
一度目。反応はない。
少し声を張る。
「すみません、通れないんですけど」
視線がいくつかこちらに向いた。だが誰も名乗らない。近くの席には観光客らしきグループが座っている。自分の荷物だと分かっているはずなのに、わざと聞こえないふりをしているようだった。
三度目。
「持ち主の方、いらっしゃいますか?」
沈黙。
車内は通常運行。満席ではないが、それなりに乗客はいる。この状況を見ているのは私だけではないはずだ。それでも、誰も動かない。
正直、苛立ちはあった。だが怒鳴っても意味はない。ここで感情的になれば、「うるさい客」になるだけだ。
私はスマホを取り出し、通路の状況を撮影した。
荷物の位置、ドアとの距離、塞がれている幅。冷静に記録する。
そして、車掌を探した。
「すみません。通路が大型荷物で塞がれています。何度か確認しましたが、持ち主が名乗り出ません」
車掌はすぐに状況を確認し、表情を引き締めた。
「出入口付近ですか?」
「はい。安全上問題があると思います。不審物扱いになる可能性はありませんか?」
“ 不審物 ”という言葉に、車掌の目がわずかに鋭くなった。
数十秒後、車内アナウンスが流れた。
「通路および出入口付近に置かれている荷物の持ち主の方、至急名乗り出てください。安全確認のため、次駅で対応させていただく場合がございます」
ざわめきが広がる。
それでも、名乗り出る人はいない。
二度目のアナウンス。
「通路への荷物の放置は規則違反です。名乗り出ない場合、安全確保のため車外へ移動します」
空気が明らかに変わった。さっきまで無関心だった乗客たちが、荷物の周囲に視線を向ける。
列車は次の停車駅に到着した。
ホームには駅員が待機していた。ドアが開くと同時に、車掌と駅員が荷物の確認に入る。
「持ち主の方、いらっしゃいますか?」
静まり返る車内。
「名乗り出がないため、安全確認のため一旦車外へ移動します」
その瞬間、奥の席から慌てた声が上がった。
「それ、私たちのです!」
遅い。
車掌は冷静に言った。
「先ほど二度アナウンスしました。なぜ名乗り出なかったのですか。通路への放置は規則違反です。安全上問題があります」
言い訳を始める持ち主。
「すぐ戻るつもりだった」
「スペースがなかった」
だが車掌は淡々と続ける。
「特大荷物は予約されたお客様のみ、所定のスペースをご利用いただけます。通路への放置は認められていません」
荷物は一旦ホームへ降ろされた。持ち主はホームで駅員の説明を受けることになり、確認作業が始まる。
その間、発車時刻が迫る。
ドアが閉まり、列車は再び動き出した。ホームには荷物の横で説明を受ける彼らの姿が残った。
車内は静まり返っている。
誰も拍手などしない。だが空気ははっきり変わっていた。さっきまで“見て見ぬふり”だった視線が、今は違う意味を持っている。
私は席に戻った。
怒鳴っていない。
蹴ってもいない。
嘘もついていない。
私はただ、
確認し、
記録し、
制度に委ねただけだ。
公共の場にはルールがある。
「ちょっとくらい」「すぐだから」
その油断が、一番危うい。
通路はきれいに空いた。
そして改めて思った。
やったもん勝ちではない。
ルールを軽く見る人ほど、
制度の前では、驚くほど弱い。