電車のドアが閉まった瞬間、私は“その空気”を察した。
——今日は、何かが起きる。
ベビーカーを押していた頃の癖で、私はいつも出入口付近に立つ。シングルマザー、三十代。仕事帰りで肩は重い。だけど、目の前の優先席に座るご年配の男性が、揺れに合わせて膝を押さえたのが見えた。
「よかったら、どうぞ。お席、代わります」
私は一歩前に出て、丁寧に声をかけた。
その瞬間——男性は、困ったように目を細めて笑った。
「時代錯誤かもしれないけどね。男は女性に席をお譲りするものだから、貴女が座って😌」
「私は大丈夫。おじいちゃんだけど、カッコつけさせて。ありがとうね」
心臓が、きゅっと鳴った。
“こういう優しさ”って、まだ残ってるんだ。
私は小さく頭を下げ、遠慮して立ったままでいると、隣から「はぁ…」と露骨な溜息が飛んできた。
見れば、ブランドロゴの入ったバッグを抱えた女性が、スマホを横向きに構えている。
レンズが、私と男性を捉えていた。
「こういうのさ、最近多いよね。わざとらしい“善意アピ”」
「どうせ撮られてバズりたいんでしょ?」
刺すような声。車内の視線が一斉に集まった。
私は思わず手を引っ込めた。喉が乾く。言い返したいのに、言葉が出ない。
男性が静かに言った。
「お嬢さん、撮るのはやめたほうが——」
「え?だって証拠残しとかないと」
女性は笑い、さらに火をつけるように続けた。
「お年寄りに席譲る“ふり”して、断られたら可哀想ポーズ。最悪」
その瞬間、車内の空気が凍った。
誰かが小さく「言い過ぎ…」と呟いたが、止める勇気はない。
私は、胸の奥が冷えていくのを感じた。
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