「ホットケースの中に、床の埃がついたモップがぶら下がっていた。」
レジ前で、その光景を見た瞬間、
喉の奥が一気に気持ち悪くなった。
ガラス越しに、モップの毛先。
黒っぽい埃が絡んでいるのが、はっきり見える。
さっきまで、ここから買おうとしていた。
——無理。
一歩、後ろに下がった。
それでも目が離せない。
水滴が、ぽた、と落ちて、
トレーの縁を伝っていく。
私はそのまま、レジの横に立っていた店員に声をかけた。
「すみません、これ……食品のケースですよね?」
店員はちらっと見て、軽く頷いた。
「はい。」
「ここに、モップ置いてますけど……」
一瞬、間。
でもすぐに、あっさり言った。
「大丈夫です。いつもやってますから、キレイに洗ってあります。」
——“いつも”。
その一言で、背中がぞわっとした。
「いや、そういう問題じゃなくて……」
言いかけたところで、店員は少し笑った。
「気にしすぎじゃないですか?」
その言い方が、妙に軽かった。
責められているわけじゃない。
でも、“こちらが面倒な客”みたいな空気。
一瞬、言葉が詰まる。
後ろで、足音が少し乱れた。
誰かが立ち止まっている気配。
視線が集まっているのが分かる。
でも、引く気はなかった。
「店長、お願いできますか。」
店員は少し面倒そうな顔をして、奥へ入っていった。
数分後、日本人の店長が出てきた。
「どうされましたか?」
私は、同じように指差した。
「この状態、確認していただけますか。」
店長の視線が、モップに止まる。
ほんの一瞬、表情が固まった。
でもすぐに、整えた。
「すぐ拭きますから。」
——やっぱり、そう来る。
私は、少しだけ息を整えた。
声は上げない。
「“拭けばいい”問題ではないと思います。」
店長は眉をひそめた。
「水滴だけなので……」
私は間を置いてから、ゆっくり言った。
「食品を扱う場所に、清掃用具を置いていた事実は、変わりませんよね。」
沈黙。
後ろで、スマホを構える気配が一つ。
シャッター音はないけど、分かる。
空気が、少し変わった。
店長は視線を外した。
「お客さん、少し大げさでは……」
その瞬間。
中で、何かが切り替わった。
怒りじゃない。
“線を引く”感覚。
私は一歩、前に出た。
「大げさかどうかではなく、基準の問題だと思います。」
店長がこちらを見る。
逃げ場を探すような目。
私は続けた。
「この状態で販売を続けて問題ないと、説明できますか?」
完全に、言葉が止まった。
周りの空気が、ぴんと張る。
誰も動かない。
数秒の沈黙。
私は、もう一歩だけ踏み込んだ。
声は低く、はっきり。
「こちらとしては、きちんと対応していただければそれでいいです。」
「ただ——」
一拍、置く。
「それが難しいのであれば、こちらも対応を考えます。」
その瞬間。
店長の顔色が、変わった。
完全に、流れが切り替わる。
視線が、モップからケース全体へ。
そして、小さく息を吐いた。
「……失礼しました。」
声のトーンが、明らかに変わっていた。
「このケースは、一度使用を中止します。」
さらに、
「中の商品も、すべて下げます。」
後ろで、空気が動く。
「え、全部?」「マジで?」
小さなざわめき。
でも私は、何も言わなかった。
店員が慌てて動き出す。
トレーごと、チキンが回収されていく。
さっきまで“普通に売られるはずだったもの”。
そして——
ケース自体も電源を落とされ、
奥へ運ばれていった。
“使わない”という判断。
それを、ただ見ていた。
怒りは、もうない。
ただ、確認。
全部終わったあと。
店長が深く頭を下げた。
「ご指摘、ありがとうございました。再発防止を徹底します。
」
私は軽く頷いた。
「お願いします。」
それだけ言って、店を出た。
外の空気が、少し冷たい。
でも、さっきまでの気持ち悪さは消えていた。
——共生できるかどうか。
正直、簡単じゃないと思う。
でも。
おかしいことを、おかしいと言えるかどうか。
その線だけは、
曖昧にしないほうがいい。
そう思った。
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