ゴールデンウィークの夜だった。
夫が「なんだか体がだるい」と言うので、外食の予定をやめようかとも思った。
だが夫は、
「焼き鳥くらいなら食べられる」
と言う。
せっかくの連休だったこともあり、私たちは近所の焼き鳥屋へ向かった。
ところが店の入口で足が止まった。
そこには大きくこう書かれていた。
「水しか飲まない方は他店へどうぞ」
さらに、
「当店はアルコール注文制です」
とも書かれていた。
私は思わず眉をひそめた。
なんて感じの悪い店なんだろう。
その時の夫は体調が悪く、水しか飲めそうになかった。
店内に入り、私は店員に事情を説明した。
「主人、体調が悪くて。今日は水かソフトドリンクだけでも大丈夫ですか?」
すると奥から五十代くらいの店主が出てきた。
そして申し訳なさそうな顔も見せず言った。
「申し訳ありません。当店はアルコール注文制です」
私は驚いた。
「でも体調が悪いんです」
そう言うと店主は静かに答えた。
「飲めないなら他のお店へお願いします」
正直、腹が立った。
目の前に具合の悪い客がいるのに。
融通も利かないのか。
夫も苦笑いしながら席を立った。
私は店を出る時まで、その店主を最低な人間だと思っていた。
だが、その数十分後。
私の考えは完全に変わることになる。
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店を出た直後から、夫の様子がおかしくなった。
顔色が悪い。
汗をかいている。
首元を何度も気にしている。
車の中で私は気付いた。
首筋に赤い発疹が広がっている。
胸元にも。
腕にも。
私は慌てた。
「病院行こう」
夫は最初、
「大丈夫」
と言っていた。
だが明らかに大丈夫ではなかった。
私たちはそのまま救急外来へ向かった。
待合室で私は落ち着かなかった。
スマホを握りながら何度も夫の顔を見る。
もし重い病気だったら。
もし入院になったら。
そんなことばかり考えていた。
夫は苦しそうに椅子へ座っていた。
結婚してから何年も一緒に暮らしてきた。
喧嘩もした。
嫌になることもあった。
それでも家族だった。
だから本気で心配していた。
しかし。
診察室で医師から告げられた言葉は想像を超えていた。
「一般的な皮膚炎ではありません」
医師はカルテを見ながら続けた。
「性感染症による症状の可能性があります」
その瞬間だった。
私の頭が真っ白になった。
耳鳴りがした。
私はゆっくり夫を見た。
夫は私の目を見なかった。
ただ俯いていた。
その瞬間。
全部理解した。
ああ。
この人、やったんだ。
外で。
しかも私には何も言わずに。
感染の可能性がある状態で。
同じ家で生活して。
同じベッドで寝て。
何もなかったような顔をして。
私の全身から血の気が引いた。
昼間の店主の顔が頭に浮かんだ。
私はあの人を冷たい人だと思った。
思いやりのない人だと思った。
でも違った。
店主は店を守ろうとしていた。
従業員を守ろうとしていた。
生活を守ろうとしていた。
嫌われても。
文句を言われても。
潰れないためにルールを作っていた。
一方で夫はどうだった。
私に優しい顔をしていた。
家族を大事にしているふりをしていた。
でも本当に守っていたのは自分だけだった。
自分が責められないこと。
自分の秘密がバレないこと。
それだけだった。
どちらが本当に身勝手なのか。
比べるまでもなかった。
診察室を出たあと。
私は夫に言った。
「今日から別室ね」
夫は小さく言った。
「ごめん……」
その言葉が一番腹立たしかった。
ごめん?
何に対して?
浮気したこと?
感染したこと?
それとも私を危険に巻き込んだこと?
夫は何も答えられなかった。
私は家に帰るとタオルを全部交換した。
歯ブラシも。
シーツも。
枕カバーも。
翌朝には自分の検査予約を入れた。
そして数日後、夫を座らせた。
録音も回した。
いつからか。
相手は誰か。
何回会ったのか。
全部話させた。
証拠も残した。
通院記録も保存した。
もう私は信じる側ではない。
確認する側になると決めた。
今でも思い出す。
あの日の焼き鳥屋を。
あの時の私は店主を最低な人間だと思っていた。
でも違った。
本当に怖いのは最初から厳しい人じゃない。
本当に怖いのは、
信頼される立場にいながら、
平然と裏切れる人間だ。
店主は嫌われながらも誰かを守っていた。
夫は愛されながら私を傷つけていた。
あの日、私は二人の男を見た。
そして知った。
人は見た目では分からない。
入口の張り紙より恐ろしいものがある。
それは――
同じベッドで眠っていた人間の嘘だった。
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