「先生、知ってます?」
診察を終えて帰ろうとしていた常連のおばあちゃんが、急に声を潜めた。
「この前来てたモデルの子。」
私はすぐに思い出した。
10歳くらいの女の子だった。
背筋をピンと伸ばし、まるで人形のように立っていた子だ。
「待合室で偶然見えちゃったんだけどね……」
おばあちゃんは顔をしかめた。
「あの子の下、菜の花みたいなのがびっしりだったよ。」
私は何も答えなかった。
なぜなら、その子のことは私も忘れられなかったからだ。
あの日、母親は診察室に入るなり言った。
「先生、お願いです。来週モデル大会があるんです。」
「絶対に治してください。」
娘の身体より大会の心配ばかりしていた。
隣の女の子は真っ直ぐ立ったまま動かない。
母親は何度も、
「姿勢。」
「背筋伸ばして。」
「足閉じて。」
と指示を出していた。
私は軽く頷きながら診察を始めた。
母親は湿疹だと言っていた。
しかし確認した瞬間、私の手は止まった。
思っていたものとは全く違った。
私は表情を変えないように努めながら母親を別室へ呼んだ。
「少しお話を聞かせてください。」
そう言うと、母親は急に落ち着きを失った。
「大丈夫ですよね?」
「ただの湿疹ですよね?」
私は質問した。
「いつ頃から気付いていましたか?」
「最近です。」
「最近とは?」
「一週間くらい前です。」
私はカルテに視線を落とした。
すると母親が突然言った。
「保姆なんです。」
私は顔を上げた。
「保姆?」
「うちの保姆、衛生観念が低くて。」
「きっとそのせいです。」
私は何も言わずに話を聞いた。
だが説明を続ける母親の声はどこか焦っていた。
そして数分後。
今度は全く別の話を始めた。
「主人かもしれません。」
「先週、この子を旅行に連れて行ったんです。」
「たぶん、その時だと思います。」
私はしばらく黙った。
そして静かに聞いた。
「先週ですか?」
「はい。」
「間違いなく?」
「ええ。」
私は小さく息を吐いた。
「少なくとも、先週の出来事だけで説明できる状態には見えません。」
母親の顔色が変わった。
「え……?」
私はそれ以上何も言わなかった。
ただ確認を続けた。
だが聞けば聞くほど話が変わる。
一週間前。
数日前。
旅行の後。
保姆。
主人。
説明だけが増えていく。
私は娘の方を見た。
女の子はずっと床を見つめていた。
質問しても答えない。
いや、答えられないようにも見えた。
母親だけが必死に話している。
私は時計を見た。
そして席を立った。
「少し確認したいことがあります。」
その瞬間だった。
母親の表情が変わった。
娘の腕を掴む。
「帰ります。」
私は驚いた。
「お待ちください。」
しかし母親は聞かなかった。
娘を引っ張るようにして診察室を出て行く。
足音だけが廊下に響いていた。
気付いた時には駐車場から車が出て行っていた。
私は追えなかった。
そして、その親子は二度と病院へ来なかった。
結局、何が正しかったのか。
何が間違っていたのか。
私は今でも知らない。
保姆の名前を出した母親。
次は主人の名前を出した母親。
けれど娘のことになると、なぜか言葉を濁した。
そして娘は最後まで一言も話さなかった。
あれから何年も経った。
それでも時々思い出す。
あの日の診察室。
あの日の沈黙。
そして、帰り際のおばあちゃんの言葉。
本当は何があったのか。
なぜあそこまで慌てて帰ったのか。
なぜ説明が何度も変わったのか。
なぜ娘は何も話さなかったのか。
答えは今も分からない。
ただ、その親子が二度と病院へ現れることはなかった。
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