出張帰りだった。
朝から移動続きで正直クタクタだった私は、少しでもゆっくり帰りたくてグリーン車を予約していた。
追加料金を払い、数日前から確保していた指定席。
ようやく座れてホッとした私は、コーヒーを飲みながらスマホを眺めていた。
発車してしばらくした頃だった。
突然、一組の母子が私の席の前で立ち止まった。
子どもは小学校低学年くらい。
母親は私を見るなり言った。
「すみません、この席を譲っていただけませんか?」
私は一瞬意味が分からなかった。
席番号を確認する。
間違いなく私の席だった。
「申し訳ありませんが、お断りします。」
私はできるだけ丁寧に答えた。
すると母親の表情が変わった。
「子どもがいるんですよ?」
私は黙っていた。
母親はさらに続ける。
「かわいそうだと思わないんですか?」
さすがに驚いた。
私は頼まれたから断っただけだ。
それなのに、なぜ責められているのか分からない。
「それは私には関係ありません。」
そう答えると、周囲の空気が少し張り詰めた。
しかし母親は引き下がらない。
「子どもなんですよ?」
「少しくらい譲ってくれてもいいじゃないですか。
」
すると今度は近くに座っていた年配の女性まで口を挟んできた。
「子どもなんだから譲ってあげればいいのに。」
「最近の人は冷たいわね。」
私は思わず苦笑した。
知らない人まで参戦してくるとは思わなかった。
私は静かに言った。
「グリーン車は自由席ではありません。」
「私は追加料金を払って、この席を予約しています。」
「皆さんも乗る前に予約できたはずです。」
年配女性は不満そうな顔をした。
母親も納得していない様子だった。
だが周囲の乗客たちは黙って聞いている。
すると向かいのサラリーマンがぽつりと言った。
「その席、予約席ですよね。」
別の乗客も頷いた。
少しずつ空気が変わる。
母親は何も言えなくなった。
年配女性も黙り込んだ。
結局、母親は諦めたように子どもの手を引いた。
私はようやく終わったと思った。
ところがその直後だった。
「ママ……」
子どもが突然鼻を押さえた。
次の瞬間、鼻血がぽたりと落ちた。
母親の顔色が変わる。
慌ててバッグを開けるが、なかなかティッシュが見つからない。
子どもも不安そうな顔をしている。
私は反射的に立ち上がった。
「こちら使ってください。」
母親が驚いた顔をする。
「えっ……?」
「今はお子さんを座らせてください。」
私は席を離れた。
母親は慌てて子どもを座らせる。
ティッシュを受け取った車掌も駆け付け、子どもの鼻血はすぐに落ち着いた。
しばらくして母親が私のところへやってきた。
そして深く頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。」
「さっきは失礼なことを言いました。」
何度も何度も謝る。
私は首を振った。
「席のことじゃないんです。」
母親が顔を上げた。
私は続けた。
「私は子どもが嫌いなわけじゃありません。」
「困っている人を助けたくないわけでもありません。」
「でも、自分でお金を払って確保した席を当然のように譲れと言われるのは違うと思うんです。」
母親は何も言わなかった。
私はさらに言った。
「お願いすることと、相手を責めることは別です。」
「断られたからといって悪者扱いするのは違うと思います。」
母親は小さくうなずいた。
その時だった。
子どもが私を見て言った。
「ありがとう。」
私は思わず笑った。
「もう大丈夫?」
子どもはうなずいた。
その様子を見ながら、私は少しだけ肩の力が抜けた。
優しさは強制されるものではない。
でも、本当に困っている人がいたら手を差し伸べたい。
私が守りたかったのは席ではない。
当たり前の権利と、当たり前の礼儀だったのだと思う。
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