玄関のドアを開けた瞬間、私は紙を握り潰しそうになった。
まただった。
これで四回目。
玄関には毎回同じ内容の苦情メモが貼られている。
「毎晩の話し声で眠れません」
「これ以上続くようでしたら管理会社へ報告します」
正直、限界だった。
なぜなら私にも言いたいことがあったからだ。
毎朝5時。
壁の向こうから聞こえるドライヤー。
ドアを閉める音。
男の話し声。
そのせいで何度起こされたか分からない。
私はずっと思っていた。
「うるさいのはそっちだろ」
だから決めた。
次に紙が貼られていたら管理会社へ連絡する。
ところが数日後。
管理会社の前で顔を合わせた隣人は、開口一番こう言った。
「毎晩うるさいんですけど」
そして私は即座に言い返した。
「それ、こっちのセリフなんですけど」
まさかこの時。
私も隣人も被害者で、本当の原因は私たちが存在すら知らなかった第三の住人だったとは夢にも思っていなかった。
管理会社の会議室には妙な空気が流れていた。
私は隣人を睨み。
隣人も私を睨んでいた。
担当者だけが困った顔をしている。
私は先に口を開いた。
「毎朝五時に起こされてるんです」
すると隣人も負けじと言った。
「こっちは毎晩です」
「毎晩?」
「夜中の一時とか二時とかですよ」
私は首を傾げた。
夜中の一時には普通に寝ている。
一方で私が訴えている早朝の騒音について話すと、隣人も驚いた顔をした。
「五時?その時間は家にいません」
話が噛み合わない。
お互い本気で迷惑を受けている。
でもお互い犯人ではなさそうだった。
管理会社の担当者も困惑していた。
「少し建物を調べてみます」
そう言って、その日の話し合いは終わった。
数日後。
私は再び管理会社から呼び出された。
そこで見せられたのは古い設計図だった。
担当者が指を差した。
「実はですね……」
私は図面を見て固まった。
私の部屋。
隣人の部屋。
その間に、細長い空間が描かれていた。
「え?」
思わず声が出た。
「部屋です」
「部屋?」
「はい」
築四十年以上の古いマンションで、過去の改装時に作られた特殊な部屋らしい。
入口は建物の反対側。
だから私は存在を知らなかった。
隣人も知らなかった。
そして。
その部屋にはちゃんと住人がいた。
さらに驚いたのは生活時間だった。
その住人は夜勤勤務。
夕方に出勤し。
早朝に帰宅する。
帰宅後にシャワーを浴びる。
ドライヤーを使う。
動画を見る。
通話する。
そして昼頃まで眠る。
私は思わず叫んだ。
「それだ!」
担当者も頷いた。
私が聞いていた早朝の騒音。
隣人が聞いていた深夜の話し声。
全部説明がつく。
犯人は隣人ではなかった。
私でもなかった。
壁一枚向こうだと思っていた音は、実は壁二枚向こうから来ていたのである。
後日。
管理会社の立ち会いで三人が顔を合わせた。
私は少し緊張していた。
隣人も同じだった。
ところが第三の住人は開口一番こう言った。
「本当に助かりました」
私と隣人は顔を見合わせた。
すると彼は続けた。
「実は私も両隣が毎晩うるさいと思ってたんです」
沈黙。
三秒。
そして管理会社の担当者が苦笑いしながら一枚の書類を見せた。
そこにはこう書かれていた。
『両隣の住人の生活音がうるさくて眠れません』
私は吹き出した。
隣人も吹き出した。
第三の住人も笑った。
結局。
全員が全員を犯人だと思っていたのである。
その後、防音シートの設置が行われた。
生活時間も共有した。
連絡先までは交換しなかったが、顔を合わせれば会釈するようになった。
騒音トラブルもほとんどなくなった。
今ではあの苦情メモを見るたびに思う。
私はあの時、自分が被害者だと信じていた。
隣人も同じだった。
そして第三の住人も同じだった。
でも真実は違った。
誰か一人が悪かったわけではない。
古いマンションの薄い壁が、三人全員を犯人にしていただけだったのである。
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