東京行きの新幹線。
週明けの朝便は、独特の緊張感がある。
出張へ向かう会社員、ノートPCを開く営業職、イヤホンで資料を確認する若手社員。
車内全体が、静かなオフィスのようだった。
私もその一人だった。
締切目前の企画書を仕上げるため、指定席に座り、パソコンを開いた。
移動時間を使わなければ間に合わない。
コーヒーを置き、資料を並べ、深呼吸して作業を始めた。
発車して数分後だった。
前の席の男性が、何の前触れもなく勢いよくリクライニングを倒した。
ガタン。
画面が目前まで迫り、テーブルは一気に狭くなった。
ノートPCの角度も変わり、手首は窮屈になった。
コーヒーカップが揺れて、危うくこぼれそうになる。
私は一瞬固まった。
ここまで倒す?
新幹線の座席は倒していい。
それは分かっている。
でも、後ろに人がいる確認もなく、全開まで一気に倒すのは別の話だ。
前を見ると、男性は50代くらい。
腕を組み、深く座り、目を閉じていた。
こちらへの配慮はゼロ。
「当然の権利」とでも言いたげな姿勢だった。
私は我慢した。
少しPCをずらし、体を斜めにして打つ。
だが姿勢は崩れ、キー入力も遅れる。
肩が痛い。
集中も切れる。
それでも何とか続けた。
30分後。
今度は男性が足を組み替え、さらに体重を預けた。
座席がまた沈み込み、PC画面が私の鼻先まで近づいた。
ついに、テーブル上の資料が床へ落ちた。
周囲の乗客がこちらを見る。
誰も何も言わない。
でも「ひどいな」という空気は伝わった。
その瞬間、私の中で何かが切れた。
私は立ち上がり、静かに声をかけた。
「すみません」
男性は片目だけ開けた。
「……何?」
「座席、少し戻していただけますか。仕事ができないんです」
男性は鼻で笑った。
「は?倒していい席やろ」
「ルール違反してへんけど?」
その言い方に、車内の空気が変わった。
私は落ち着いて答えた。
「倒していい機能と、配慮しなくていい態度は別です」
男性の眉が動いた。
「なんや偉そうに」
「仕事なら会社でやれや」
私は即答した。
「休みたいなら家で寝ればいいですよね?」
一瞬、車内がしんと静まり返った。
そして、後方の席から小さく吹き出す声がした。
男性の顔が赤くなる。
「なんやと!」
立ち上がろうとしたその時——
通路から車掌が現れた。
「お客様、どうされましたか?」
近くの乗客がすぐに説明してくれた。
「後ろの方がずっと困っていて、今やっと声をかけたんです」
「かなり急に倒されてました」
別の女性も続いた。
「私も見てました。ちょっと気の毒でした」
完全に流れが変わった。
男性は周囲を見回し、初めて自分が孤立していることに気づいた顔をした。
車掌は穏やかに言った。
「リクライニングはご利用いただけますが、後方へのご配慮をお願いしております」
「少し角度を戻していただけますか」
男性は舌打ちしながら、座席を戻した。
しかもかなり勢いよく。
だが、もう誰も怖がっていなかった。
車掌は私に向かって言った。
「もしよろしければ、ワークスペース席に空きがあります。ご案内できます」
私は礼を言い、席を移った。
広いテーブル、電源完備、静かな環境。
最初からここに来たかったと思うほど快適だった。
移動前、通路から元の席を見ると——
男性は小さく座り直し、今度は背筋を伸ばしていた。
さっきまでの威圧感は消えていた。
隣の乗客にも距離を取られていた。
完全に社内……いや、車内で孤立していた。
数時間後、企画書は無事完成。
取引先との商談も成功した。
帰りの新幹線で、私は窓の外を見ながら思った。
黙って耐えると、非常識な人はそれを「正しい」と勘違いする。
でも、一度きちんと声を上げれば、空気は変わる。
リクライニングは権利だ。
でも公共の場で必要なのは、権利の主張より先に思いやりだ。