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『ぼけないように守ってください』施設に入った母の荷物から出てきた紙切れに、胸がえぐられた話
2026/06/14

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母が施設に入ったあと、実家の片づけを始めた。

誰もいない家は、妙に広かった。

台所には、母が好きだった湯のみ。

引き出しには、輪ゴムと割り箸。

押し入れには、いつか使うと言い続けた紙袋の山。

どれも母らしくて、どれも少しだけ胸に刺さった。

私は妹と一緒に、衣類や書類を分けていた。

兄二人にも連絡しながら、必要なものと処分するものを確認する。

淡々とやるつもりだった。

泣かないつもりだった。

でも、母の字を見るたびに手が止まる。

買い物メモ。

病院の予約日。

「牛乳」

「納豆」

「薬」

その短い文字の中に、母の日常がまだ残っていた。

押し入れの奥から、古い箱が出てきた。

中には封筒や領収書、意味の分からないメモがぎっしり入っていた。

私は一枚ずつ確認して、いらないものを袋に入れていった。

その時、破れた紙の切れ端が出てきた。

くしゃくしゃで、端が雑にちぎれている。

捨てようとして、ふと文字が目に入った。

私は動けなくなった。

そこには、兄二人の名前が書いてあった。

そして、私の名前。

妹の名前。

母の字だった。

少し震えている。

でも、ちゃんと読める。

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順番も合っている。

漢字も合っている。

その下に、こう書かれていた。

「子供達のこと忘れないで」

そして。

「ぼけてきたようだ」

「ぼけないように守ってください」

私はその場に座り込んだ。

胸の奥が、ズキンと痛んだ。

誰にも見せずに、母はこんな紙を書いていたのか。

いつ書いたのだろう。

夜中だろうか。

一人で台所に座って、手元の紙を破って、必死に名前を書いたのだろうか。

何かを忘れた日があったのかもしれない。

財布を置いた場所。

約束の時間。

薬を飲んだかどうか。

あるいは、誰かの名前が一瞬出てこなかったのかもしれない。

その一瞬が怖くなったのだと思う。

自分が自分でなくなっていくような気がして。

一番忘れたくないものから、紙に残したのだ。

子どもの名前。

私たちの名前。

母にとっての最後の砦みたいに。

私は紙を握ったまま、しばらく泣けなかった。

悲しいのに、涙が出ない。

ただ、喉の奥が詰まって、呼吸が浅くなった。

母は強い人だった。

何でも一人で抱える人だった。

困ったことがあっても、すぐに「大丈夫」と言う。

しんどくても笑う。

寂しくても電話では明るく話す。

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そんな母が、誰にも言えずに書いた一枚。

「ぼけないように守ってください」

その言葉が、痛かった。

守りたい。

でも、時間を止めることはできない。

記憶が少しずつほどけていくのを、完全に止めることもできない。

それでも、何かはできるはずだと思った。

母が私たちを忘れないように。

たとえ名前がすぐに出てこなくなっても、安心できるように。

写真を持っていこう。

昔の話をしよう。

兄たちにも、この紙のことを伝えよう。

妹と一緒に、母の好きだった歌を流そう。

母の中に残っている日々を、こちら側から何度でも照らしてあげよう。

私はもう一度、紙を見た。

破れている。

汚れている。

でも、母の字はちゃんと残っていた。

兄の名前。

もう一人の兄の名前。

私の名前。

妹の名前。

全部、合っていた。

大丈夫だよ。

そう言いたくなった。

お母さん、大丈夫だよ。

ちゃんと書けてるよ。

みんなのこと、覚えてるよ。

忘れていないよ。

もし少しずつ忘れていっても、私たちが覚えているから。

お母さんが作ってくれたご飯も。

怒った顔も。

運動会に来てくれたことも。

風邪の夜に背中をさすってくれた手も。

全部、こちらが覚えている。

だから一人で怖がらなくていい。

施設へ行く日、私はその紙をバッグに入れた。

母にはまだ見せなかった。

見せたら、母は恥ずかしそうに笑うかもしれない。

「そんなの書いたっけ」と言うかもしれない。

もしかしたら、本当に覚えていないかもしれない。

それでもいい。

私は施設の部屋で、母の手を握った。

母は少し細くなった声で言った。

「来てくれたの」

私は笑ってうなずいた。

「うん、来たよ」

その瞬間、紙に書かれた文字が頭に浮かんだ。

子供達のこと忘れないで。

ぼけないように守ってください。

私は母の手を少し強く握った。

守るよ。

記憶そのものは守れなくても。

お母さんが怖かった気持ちは、ちゃんと受け取ったから。

大丈夫。

名前も、順番も、漢字も合ってた。

お母さんはまだ、ちゃんとお母さんだよ。

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