母が施設に入ったあと、実家の片づけを始めた。
誰もいない家は、妙に広かった。
台所には、母が好きだった湯のみ。
引き出しには、輪ゴムと割り箸。
押し入れには、いつか使うと言い続けた紙袋の山。
どれも母らしくて、どれも少しだけ胸に刺さった。
私は妹と一緒に、衣類や書類を分けていた。
兄二人にも連絡しながら、必要なものと処分するものを確認する。
淡々とやるつもりだった。
泣かないつもりだった。
でも、母の字を見るたびに手が止まる。
買い物メモ。
病院の予約日。
「牛乳」
「納豆」
「薬」
その短い文字の中に、母の日常がまだ残っていた。
押し入れの奥から、古い箱が出てきた。
中には封筒や領収書、意味の分からないメモがぎっしり入っていた。
私は一枚ずつ確認して、いらないものを袋に入れていった。
その時、破れた紙の切れ端が出てきた。
くしゃくしゃで、端が雑にちぎれている。
捨てようとして、ふと文字が目に入った。
私は動けなくなった。
そこには、兄二人の名前が書いてあった。
そして、私の名前。
妹の名前。
母の字だった。
少し震えている。
でも、ちゃんと読める。
順番も合っている。
漢字も合っている。
その下に、こう書かれていた。
「子供達のこと忘れないで」
そして。
「ぼけてきたようだ」
「ぼけないように守ってください」
私はその場に座り込んだ。
胸の奥が、ズキンと痛んだ。
誰にも見せずに、母はこんな紙を書いていたのか。
いつ書いたのだろう。
夜中だろうか。
一人で台所に座って、手元の紙を破って、必死に名前を書いたのだろうか。
何かを忘れた日があったのかもしれない。
財布を置いた場所。
約束の時間。
薬を飲んだかどうか。
あるいは、誰かの名前が一瞬出てこなかったのかもしれない。
その一瞬が怖くなったのだと思う。
自分が自分でなくなっていくような気がして。
一番忘れたくないものから、紙に残したのだ。
子どもの名前。
私たちの名前。
母にとっての最後の砦みたいに。
私は紙を握ったまま、しばらく泣けなかった。
悲しいのに、涙が出ない。
ただ、喉の奥が詰まって、呼吸が浅くなった。
母は強い人だった。
何でも一人で抱える人だった。
困ったことがあっても、すぐに「大丈夫」と言う。
しんどくても笑う。
寂しくても電話では明るく話す。
そんな母が、誰にも言えずに書いた一枚。
「ぼけないように守ってください」
その言葉が、痛かった。
守りたい。
でも、時間を止めることはできない。
記憶が少しずつほどけていくのを、完全に止めることもできない。
それでも、何かはできるはずだと思った。
母が私たちを忘れないように。
たとえ名前がすぐに出てこなくなっても、安心できるように。
写真を持っていこう。
昔の話をしよう。
兄たちにも、この紙のことを伝えよう。
妹と一緒に、母の好きだった歌を流そう。
母の中に残っている日々を、こちら側から何度でも照らしてあげよう。
私はもう一度、紙を見た。
破れている。
汚れている。
でも、母の字はちゃんと残っていた。
兄の名前。
もう一人の兄の名前。
私の名前。
妹の名前。
全部、合っていた。
大丈夫だよ。
そう言いたくなった。
お母さん、大丈夫だよ。
ちゃんと書けてるよ。
みんなのこと、覚えてるよ。
忘れていないよ。
もし少しずつ忘れていっても、私たちが覚えているから。
お母さんが作ってくれたご飯も。
怒った顔も。
運動会に来てくれたことも。
風邪の夜に背中をさすってくれた手も。
全部、こちらが覚えている。
だから一人で怖がらなくていい。
施設へ行く日、私はその紙をバッグに入れた。
母にはまだ見せなかった。
見せたら、母は恥ずかしそうに笑うかもしれない。
「そんなの書いたっけ」と言うかもしれない。
もしかしたら、本当に覚えていないかもしれない。
それでもいい。
私は施設の部屋で、母の手を握った。
母は少し細くなった声で言った。
「来てくれたの」
私は笑ってうなずいた。
「うん、来たよ」
その瞬間、紙に書かれた文字が頭に浮かんだ。
子供達のこと忘れないで。
ぼけないように守ってください。
私は母の手を少し強く握った。
守るよ。
記憶そのものは守れなくても。
お母さんが怖かった気持ちは、ちゃんと受け取ったから。
大丈夫。
名前も、順番も、漢字も合ってた。
お母さんはまだ、ちゃんとお母さんだよ。