朝から、社内はいつものように騒がしかった。
電話が鳴る。
コピー機が詰まる。
誰かが会議室の予約を間違える。
給湯室では、コーヒーの粉が切れたと小さな事件が起きている。
私は自分の席で、今日の打ち合わせ資料を確認していた。
午後に大事な商談がある。
相手先との日程調整も終わっている。
あとは細かい確認だけ。
そう思っていた。
その時、新入社員の子がこちらへ歩いてきた。
少し緊張した顔。
手にはメモ。
私は一瞬、嫌な予感がした。
入社してまだ日が浅い。
真面目ではある。
挨拶もする。
返事もいい。
ただ、毎回どこか一つ抜ける。
メールの件名がない。
添付ファイルがない。
「確認しました」と言いながら、何を確認したのか本人も分かっていない。
悪い子ではない。
悪い子ではないのだ。
でも、仕事は善良さだけでは回らない。
その子は私の机にメモを置いた。
「〇〇さん宛にお電話ありました」
私は顔を上げた。
「ありがとう。どちらから?」
すると、その子は少し考えた。
そして、明るく言った。
「打ち合わせの件みたいです」
私はメモを見た。
そこには、たしかにこう書いてあった。
「〇〇さん宛にお電話ありました」
「折り返し下さいとの事です」
「打ち合わせの件みたいです」
「宜しくお願い致します!」
私は三秒ほど黙った。
丁寧。
字もきれい。
最後のビックリマークも元気。
しかし、肝心な情報がない。
誰から。
どこの会社から。
電話番号は。
何時にかかってきたのか。
どの打ち合わせの件なのか。
折り返し先はどこなのか。
全部ない。
私はもう一度メモを見た。
もしかしたら裏に書いてあるのかと思った。
裏も見た。
白い。
見事なまでに白い。
私は深呼吸した。
「えっと、相手の名前は?」
新入社員の子は、きょとんとした。
「聞いてないです」
「会社名は?」
「たぶん、打ち合わせの人です」
打ち合わせの人。
この世に何人いると思っているのか。
私は今日だけで三件打ち合わせがある。
明日もある。
来週もある。
社会人は意外と毎日誰かと打ち合わせをしている。
それを「打ち合わせの人」で特定できるほど、世の中は狭くない。
私はさらに聞いた。
「電話番号は?」
「あ、折り返しって言ってました」
「だから、どこに?」
「電話で……」
危ない。
私の中の何かが、そっと机を叩いた。
電話で折り返すことは分かっている。
問題は、その電話番号だ。
私はできるだけ穏やかな声で言った。
「折り返しって言われた時は、相手の会社名、名前、電話番号、用件を聞くんだよ」
新入社員の子は、はっとした顔をした。
「そうなんですね」
そうなんですね。
その瞬間、私は自分の社会人一年目を思い出そうとした。
私も昔は何も分からなかった。
電話が怖かった。
敬語も変だった。
先輩に何度も怒られた。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください