ドイツのコインオークションで、ずっと欲しかった一枚を落札できた。
画面に「落札」の文字が出た瞬間、私は思わず椅子から立ち上がった。
高かった。
でも、欲しかった。
写真で見た時から、もう頭から離れなかった。
古い銀色の光。
摩耗した縁。
表面に残る歴史の匂い。
ただの金属片ではない。
私にとっては、小さな時代そのものだった。
それから数日間、私は追跡番号を何度も見た。
ドイツから発送。
国際交換局。
日本到着。
通関。
配達予定。
画面が更新されるたびに、胸が少しずつ高鳴った。
「ついに来る」
その日は朝から落ち着かなかった。
仕事をしていても、頭の片隅にはコインがあった。
どんなケースに入れようか。
写真を撮ろうか。
まずはルーペで刻印を見ようか。
完全に浮かれていた。
そして、郵便局から連絡が来た。
荷物が届いているという。
私はすぐに受け取りに向かった。
窓口で出された段ボール箱を見た瞬間、少し違和感があった。
箱が軽い。
軽すぎる。
コイン一枚とはいえ、梱包材やケースが入っていれば、それなりの重みがあるはずだ。
でも、手に持った瞬間、スカッとしていた。
嫌な予感が、背中をゆっくり登ってきた。
箱の端も、少し怪しかった。
つぶれている。
封の部分も、どこか頼りない。
私はその場で郵便局の方に言った。
「すみません、これ、中身を確認してから受け取ってもいいですか」
局員さんも、箱の状態を見て少し表情を変えた。
奥の確認スペースで、一緒に開封することになった。
カッターが封を切る音が、やけに大きく聞こえた。
心臓が嫌な速さで鳴っている。
箱が開く。
茶色い段ボールの内側が見える。
紙。
空間。
さらに奥。
私は息を止めた。
ない。
何もない。
いや、正確には、空気だけが入っていた。
コインがない。
ケースもない。
梱包材らしいものも、ほとんどない。
私がドイツのオークションで落札したはずの一枚は、そこに存在しなかった。
「……え?」
声が出た。
局員さんも中をのぞき込んで、困ったような顔をした。
私はもう一度、箱の中を見た。
あるはずのものを探す時、人間は空箱の中まで何度も見てしまう。
底。
隅。
折り返しの下。
そんなところにコインが隠れているはずもない。
でも探した。
探すしかなかった。
だって、ここまでずっと追ってきた荷物だ。
ドイツから海を越え、国を越え、ようやく私の前に来た。
その中身が、空。
笑えない。
いや、少しだけ笑いそうになった。
あまりに見事な空振りで。
私は局員さん立ち会いのもと、開封確認をしてもらった。
そして、受け取りを拒否した。
受け取ってしまえば、あとが面倒になる。
中身がない箱を、私が受け取ったことになる。
そんなもの、家に持ち帰っても仕方ない。
コレクションケースには入らない。
飾っても虚無である。
こうして、その段ボール箱は空っぽのまま、送り主のいるドイツへ返送されることになった。
国際郵便で空箱が帰っていく。
なんだその旅。
中身より箱の方が移動している。
主役はどこへ行った。
その日から、私は先方とメールでやり取りをした。
英語の文章を何度も読み直し、翻訳も使い、状況を説明した。
郵便局で開封確認をしたこと。
中身がなかったこと。
受け取り拒否をしたこと。
写真も送った。
箱の状態も伝えた。
相手も驚いていた。
責めるような言い方はしなかった。
どこで消えたのか、こちらには分からない。
ドイツ側なのか。
輸送中なのか。
通関のどこかなのか。
それとも、もっと単純な梱包ミスなのか。
分からないからこそ、余計に気持ちが悪かった。
そして今日。
全額返金された。
金額は戻ってきた。
手続きとしては、きれいに終わった。
相手もきちんと対応してくれた。
そこには感謝している。
でも、私は画面の返金通知を見ながら、ため息をついた。
欲しかったのはお金ではない。
あのコインだった。
返金はありがたい。
けれど、落札できた時の高揚感までは戻ってこない。
あの一枚を手に取る瞬間を楽しみにしていた時間も、空箱を開けた瞬間の脱力で全部どこかへ飛んでいった。
返金よりコインが良い。
本当に、それに尽きる。
お金は戻った。
でも、あのコインは戻ってこない。
今ごろどこにいるのか。
誰かの手元にあるのか。
どこかの仕分け場で迷子になっているのか。
それとも、最初から箱に入っていなかったのか。
考えても答えは出ない。
ただ、私はひとつ学んだ。
海外オークションは夢がある。
でも、夢は段ボール箱に入って届くとは限らない。
時には、空気だけが国際便でやって来る。
しかも、きっちり追跡番号つきで。