ポストを開けた瞬間、白い封筒が一枚だけ入っていた。
差出人はない。
宛名も妙に雑。
広告でも請求書でもない。
こういう封筒は、だいたい面倒くさい。
私は玄関で靴も脱がずに、その場で封を切った。
中から出てきたのは、ワープロ打ちの紙一枚。
そして、一行目を読んだ瞬間、思わず笑ってしまった。
「下記住所に現金八十万円ずつ普通郵便で送れ」
いや、待て。
八十万円。
しかも「ずつ」。
誰と誰が、何回送る前提なのか。
さらに普通郵便。
現金を。
普通郵便で。
この時点で、脅迫状というより、犯罪初心者の自由研究だった。
でも、笑ったのは最初の数秒だけだった。
読み進めるにつれ、背中にじわじわ嫌な汗がにじんだ。
「期限は当書面到着後五日以内」
「悪事によって搾取した金の一部だ」
「支払えば公表しない」
「警察へ密告した場合、期限までに支払わなかった場合、容赦しない」
文章だけは、やけに偉そうだった。
誰かを裁く立場にでも立ったつもりなのか。
知らない人間から突然、悪事だの搾取だの言われ、八十万円を要求される。
しかも、こちらには身に覚えがない。
私は紙を持ったまま、玄関でしばらく固まった。
外は普通の午後だった。
近所の子どもの声がして、どこかで犬が吠えている。
そんな平和な住宅街の空気の中で、私だけが急に昭和のサスペンスに放り込まれていた。
「脅迫状がきた、なう」
思わず口に出した。
いや、笑ってる場合ではない。
でも、あまりに雑すぎて、脳が恐怖より先にツッコミを始めてしまう。
普通郵便で八十万円を送れ?
現金書留ですらなく?
そもそも普通郵便で現金を送る発想が、もう警察に自己紹介しているようなものではないか。
私はリビングに入り、テーブルの上に紙を置いた。
何度も読み返した。
怒りが遅れてやってきた。
なぜ私が、こんなものを受け取らなければならないのか。
なぜ見ず知らずの誰かに、勝手に悪人扱いされなければならないのか。
なぜ八十万円なのか。
五十万でも百万円でもなく、八十万円。
中途半端に現実味を出そうとしたのか。
それとも、犯人の生活費の計算がそのくらいだったのか。
「ずつ」と書いてあるあたり、欲だけは大きい。
文章の品格は小さい。
私はすぐに写真を撮った。
封筒。
紙面。
到着した時間。
触った場所もなるべく覚えておく。
こういう時、感情で破り捨てたら負けだ。
腹は立つ。
ものすごく腹は立つ。
でも、証拠は証拠。
相手が「容赦しない」と言うなら、こちらも容赦なく記録するだけだ。
警察へ密告した場合、と書いてある。
密告。
その単語にも笑ってしまった。
私は犯罪組織の裏切り者ではない。
ただの一般人である。
警察に相談するのは密告ではなく、正規ルートだ。
むしろ脅迫状を送っておいて、「警察に言うな」は無理がある。
カレーを出しておいて「匂いを嗅ぐな」と言っているようなものだ。
私はそのまま警察に相談することにした。
紙はクリアファイルに入れた。
封筒も残した。
指紋だの何だの、素人には分からない。
でも、できるだけそのまま持っていく。
電話で事情を話すと、相手の声が少し硬くなった。
「現金を要求されていますか?」
「はい。八十万円ずつ、普通郵便で送れと」
自分で言っていて、また少し笑いそうになった。
でも、警察の人は笑わなかった。
当たり前だ。
これは脅迫であり、恐喝の可能性もある。
どれだけ文章が雑でも、やっていることは笑い話ではない。
そこに気づいた瞬間、胸の奥が少し冷えた。
もし相手が住所を知っているなら。
もし近くで見ていたら。
もしまた何か送ってきたら。
急に、家の外の物音が気になり始めた。
私は窓の鍵を確認した。
ポストの音にも敏感になった。
たった一枚の紙で、日常はこんなに簡単に揺れる。
それが一番腹立たしかった。
こちらは何もしていない。
なのに、勝手に不安を置いていかれる。
犯人は紙一枚で済むと思っているのだろう。
でも、受け取った側は違う。
家族にも説明しなければならない。
警察にも行かなければならない。
証拠も保管しなければならない。
安心まで削られる。
被害額ゼロでも、被害はある。
ただ、ひとつだけ言える。
私は払わない。
普通郵便でも、速達でも、鳩便でも払わない。
八十万円ずつなど送らない。
そもそも悪事で搾取した金などない。
あるのは毎月きっちり減っていく生活費と、じわじわ上がる電気代くらいだ。
脅す相手を間違えている。
いや、誰を脅しても間違いなのだが。
紙を見ながら、私は最後にため息をついた。
文章には「容赦しない」と書いてある。
では、こちらも遠慮しない。
警察に相談し、証拠を残し、必要な手続きを取る。
脅迫状を送るなら、せめてもう少し常識を勉強してからにしてほしい。
現金八十万円を普通郵便で送れなんて、怖さより先に郵便局が困る。
犯人へ。
あなたの脅迫状は届きました。
ただし、お金ではなく、通報のきっかけとして。
返送先は警察でお願いします。