台風の日だった。
朝から風の音が変だった。
窓ガラスが小刻みに震え、店の前ののぼりは、もう旗というより白旗みたいに暴れていた。
雨は横から降っていた。
傘なんて意味がない。
人通りもほとんどない。
私は店の中で、外を見ながら思っていた。
「今日はもう、何も起きないでくれ」
そういう日に限って、ちゃんと起きる。
昼過ぎ。
外から、ものすごい音がした。
バンッ。
金属が地面に叩きつけられたような音。
続いて、ガリッという嫌な音。
私は反射的に入口へ走った。
自動ドアの向こうで、黒い看板らしきものが、風に煽られて道路に倒れていた。
よく見ると、隣の店の看板だった。
根元から壊れたのか、パネル部分が外れたのか、とにかく原形をとどめていない。
そして、そのすぐ横に私の車。
胸がざわっとした。
近づいて、嫌な予感は確信に変わった。
車体がへこんでいた。
風で飛んできた看板が、うちの車にぶつかっていた。
私はしばらく、雨の中で固まった。
台風。
隣の店の看板。
私の車。
この三つが、最悪の形でつながっていた。
「いや、なんでうちなん……」
声が出た。
もちろん、看板に悪意はない。
風にも悪意はない。
でも、へこんだ車を見ると、人間はどうしても誰かに文句を言いたくなる。
私はすぐ写真を撮った。
倒れた看板。
車の傷。
位置関係。
雨でスマホの画面が濡れる。
風で髪が顔に張りつく。
それでも撮った。
こういう時、感情より証拠だ。
その後、隣の店の人にも状況を伝えた。
相手も驚いていた。
「すみません、大丈夫ですか?」
その言葉はあった。
でも、問題はそこからだった。
保険会社に連絡し、事情を説明する。
こちらは当然、隣の店側が弁償してくれるものだと思っていた。
だって、隣の店の看板だ。
それが壊れて飛んできた。
うちの車がへこんだ。
原因と結果が、あまりにも分かりやすい。
ところが、返ってきた説明は違った。
台風のような自然災害が原因の場合、店側に明確な管理上の落ち度が認められなければ、弁償義務が発生しないことがある。
だから、基本的にはこちらの車両保険で修理する形になる。
私は一瞬、言葉を失った。
「え、こっちの保険で?」
思わず聞き返した。
隣の看板が飛んできて、うちの車がへこんだ。
なのに、うちの保険で直す。
その説明を頭の中で何度も並べた。
並べるほど、理不尽に見える。
いや、見えるというか、かなり理不尽に感じた。
私が看板を飛ばしたわけではない。
私が台風を呼んだわけでもない。
車をそこに停めていただけだ。
なのに、修理の手続きも、保険の相談も、こちら。
なんなら保険を使えば等級のことも気になる。
踏んだり蹴ったり。
いや、今回は飛んできたりへこんだりだ。
もちろん、説明は分かる。
台風は不可抗力。
店側がきちんと管理していたなら、責任を問うのは難しい。
法的には、そういう考え方になるのだろう。
でも、感情が追いつかない。
人間の心は、保険約款ほど冷静にできていない。
へこんだ車を目の前にして、
「なるほど、自然災害なら仕方ないですね」
とすぐ言えるほど、私は悟っていない。
隣の店の人も悪気があったわけではない。
それも分かる。
台風で看板が壊れるなんて、相手にとっても困る話だ。
でも、こちらの車にぶつかった事実は消えない。
「すみません」と言われても、へこみは戻らない。
雨上がりにもう一度車を見た。
へこんだ部分が、妙に目立つ。
昨日まで普通だった場所に、台風の置き土産がある。
しかも、隣の店の看板という名札つき。
私は苦笑いした。
看板は店を宣伝するためのものだと思っていた。
まさか、うちの車に体当たりで存在感を示してくるとは思わなかった。
宣伝効果、物理的すぎる。
その日はずっとモヤモヤしていた。
「普通なんです」と説明されるたびに、心の中で小さく反論した。
普通って何だ。
こういう時の普通は、だいたいやられた側には優しくない。
制度としては普通。
保険処理としては普通。
でも、車をへこまされた側の気持ちは、全然普通ではない。
それでも、怒鳴っても看板は元に戻らない。
店の人を責め続けても、台風は反省しない。
結局、私は自分の保険会社と話を進めることにした。
悔しい。
ものすごく悔しい。
でも、ここで感情だけで動くと、余計に疲れる。
写真を残し、状況を整理し、必要な手続きを進める。
それしかない。
今回、学んだことがある。
台風の日は、風だけが怖いんじゃない。
隣の店の看板も飛んでくる。
そして、飛んできたあとに待っているのは、さらに面倒な保険の話だ。
自然災害は、物を壊すだけではない。
人の納得感まで、きれいにへし折っていく。
車のへこみは直せる。
たぶん修理すれば、見た目は元に戻る。
でも、あの説明を聞いた瞬間の、
「え、こっちが?」
という気持ちは、なかなか戻らない。
次の台風の日は、車をどこに停めるか本気で考える。
できれば、看板から遠い場所。
風からも遠い場所。
そして、理不尽からも遠い場所。
そんな駐車場があるなら、ぜひ教えてほしい。