仕事で一千万円のミスをした。
数字を見た瞬間、胃が落ちた。
画面には、ありえない金額が並んでいた。
桁が違う。
確認したはずだった。
二回見たはずだった。
でも、違っていた。
たった一つの入力ミス。
たった一つの確認漏れ。
それだけで、会社の空気が一気に冷えた。
上司の顔から表情が消えた。
隣の席の先輩も、キーボードを打つ手を止めた。
私は声が出なかった。
「すみません」
それしか言えなかった。
何度も言った。
でも、その言葉で一千万円が戻るわけではない。
会議室に呼ばれ、状況を説明した。
経緯。
原因。
再発防止。
全部、自分の口で話した。
喉が乾いて、手が震えた。
上司は怒鳴らなかった。
それが逆に怖かった。
「まずは処理を確認しよう」
その静かな声が、胸に刺さった。
怒られた方がまだ楽だったかもしれない。
帰り道、私はずっと下を向いて歩いた。
電車の音も、人の声も、全部遠かった。
頭の中では、同じ数字だけが回っている。
一千万。
一千万。
一千万。
家に着いても、何もする気になれなかった。
ご飯もいらない。
風呂も面倒。
スマホを見るのも怖い。
布団に倒れ込んだが、眠れるわけがない。
明日、会社に行きたくない。
このまま地球が少しだけ私を見逃してくれないかな。
そんな逃げ方まで考えていた。
その時、机の上に置いた一枚の返信ハガキが目に入った。
少し前に送った招待状の返事だった。
友人から届いていたものだ。
開く気力もなかったが、現実逃避のつもりで手に取った。
そして、見た瞬間、私は固まった。
普通の返信ハガキではなかった。
出席か欠席かを選ぶ欄。
アレルギーの確認。
送迎バスの利用。
本来なら、きれいに丸をつけて返すだけの紙。
なのに、そこには大きな字でこう書かれていた。
「誰も端っこで泣かないようにと、君は地球を丸くしたんだろ?」
私は一瞬、意味が分からなかった。
いや、今も分からない。
でも、妙に壮大だった。
地球を丸くした理由を、返信ハガキの住所欄で語らないでほしい。
次に、メッセージ欄を見た。
「行きます!!!!」
勢いだけはすごい。
出席の意思が強すぎる。
そして、アレルギー欄にはなぜか「犬」に丸がついていた。
食物アレルギーの欄である。
えび、かに、小麦、そば、卵、乳、落花生。
その横に、犬。
犬を食べる予定はない。
会場で犬は出ない。
何を警戒しているんだ。
私はそこで、少しだけ笑ってしまった。
一千万のミスをした夜に、犬アレルギーの出席ハガキ。
人生の落差がひどい。
さらに端には、小さな文字で何か叫んでいるような書き込みまであった。
真面目な紙面が、完全に友人の精神世界に侵食されている。
私はハガキを持ったまま、しばらく笑った。
笑ったあと、少し泣きそうになった。
たぶん、張りつめていたものが切れたのだと思う。
仕事のミスは消えない。
明日も処理は続く。
謝罪も必要だ。
報告書も書く。
たぶん、しばらく胃は痛い。
でも、この一枚を見て思った。
世界は、私のミスだけでできているわけじゃない。
一千万の数字に押し潰されそうな夜でも、誰かは返信ハガキに地球の形について書いてくる。
誰かは、食物アレルギー欄に犬をねじ込んでくる。
人間、思ったより意味不明だ。
そして、その意味不明さに救われることがある。
翌日、私は会社に行った。
もちろん足取りは重かった。
でも、前日よりは少しだけ呼吸ができた。
上司に状況を報告し、処理の確認を進めた。
怒られるところは怒られた。
直すところは直した。
逃げずに一つずつ片づけた。
昼休み、スマホに保存したハガキの写真を見て、また少し笑った。
隣の先輩に見せると、先輩は吹き出した。
「犬アレルギーって何?」
「私も知りません」
「でも、元気出るな」
本当にそうだった。
仕事で一千万のミスをして、このハガキ。
普通なら最悪の日で終わるはずだった。
でも、なぜか少しだけ救われた。
友人にメッセージを送った。
「返信ハガキ、意味分からなすぎて助かった」
すぐ返事が来た。
「地球は丸いから大丈夫」
やっぱり意味は分からなかった。
でも、その雑な励ましが、今の私にはちょうどよかった。
一千万のミスは重い。
でも、地球は丸い。
そして私は今日も、とりあえず会社に行く。