包帯を巻かれた腕を見て、私は妙に静かな気持ちになった。
白い包帯。
重たい腕。
動かすたびに、皮膚の奥がじんと痛む。
これで終わるわけじゃない。
これで全部消えるわけでもない。
それなのに、ここまで来るのに百万円かかった。
私はベッドの上で天井を見ながら、何度も同じことを考えていた。
「昔の自分、ほんと何してくれてんの」
学生の頃、私は自分の気持ちをうまく扱えなかった。
つらい。
寂しい。
誰にも分かってもらえない。
そういう感情を、言葉にするのが下手だった。
その時は、自分だけが世界で一番苦しい気がしていた。
だから、後先なんて考えなかった。
明日のことも。
十年後のことも。
社会に出た時のことも。
半袖を着る季節のことも。
就職面接で腕を見られることも。
全部、想像できなかった。
でも大人になって、現実はちゃんと追いかけてきた。
夏でも長袖。
飲み会でも腕まくりできない。
健康診断で袖を上げる時、少し息が止まる。
初対面の人の視線が、腕のあたりで一瞬止まる。
その一瞬が、痛い。
直接何か言われるわけではない。
でも、空気が変わる。
「あれ?」
「どうしたんだろう」
「聞かない方がいいやつかな」
その沈黙が、ずっと残る。
一番きつかったのは、就職してからだった。
仕事は普通にできる。
遅刻もしない。
人間関係も頑張る。
でも、ふとした時に自分の腕が気になって、心が縮む。
制服が半袖の職場は避けた。
接客で腕が見える仕事も避けた。
本当はやってみたい仕事もあった。
でも、応募する前から諦めた。
理由は能力じゃない。
過去の痕だった。
それが悔しかった。
「若気の至り」で済むものではなかった。
「昔のこと」で片づくものでもなかった。
過去の自分が、現在の私の選択肢を削っている。
それに気づいた時、初めて本気で後悔した。
手術を決めるまで、かなり迷った。
高い。
怖い。
痛そう。
本当に目立たなくなるのかも分からない。
それでも、私は予約した。
説明を受けた。
何度も確認した。
簡単には消えないこと。
完全には元に戻らないこと。
時間もお金もかかること。
医師は淡々と話した。
その淡々とした言葉が、逆に重かった。
魔法ではない。
過去の自分がつけたものを、今の自分が少しずつ引き受けていく作業だ。
そう思った。
手術の日、私は緊張で手が冷えていた。
自分で決めたのに、逃げたくなった。
でも、ここで逃げても何も変わらない。
私は腕を差し出した。
終わったあと、包帯を巻かれた腕を見て、泣きそうになった。
痛いからではない。
情けなかったからだ。
あの時、誰かに相談できていたら。
少し休めていたら。
自分を傷つける以外の方法を選べていたら。
今、百万円もかけて、こうして過去の後始末をしなくて済んだかもしれない。
もちろん、当時の自分も苦しかった。
それは否定しない。
でも、今の私は言える。
苦しさを体に残すな。
一時の感情を、一生ものの証拠にするな。
曖昧な気持ちでやるな。
「ちょっとだけ」
「誰かに気づいてほしい」
「今だけ楽になりたい」
その一瞬の先に、何年も続く後悔がある。
社会は、思ったより優しくない。
事情を丁寧に聞いてくれる人ばかりではない。
勝手に想像する人もいる。
偏見を持つ人もいる。
何も言わずに距離を取る人もいる。
そのたびに、自分だけが昔の自分に引き戻される。
傷を消す手術をしたからといって、人生が急にきれいになるわけじゃない。
でも、私は少しだけ前に進みたかった。
半袖を着たい。
腕を隠すことばかり考えずに歩きたい。
誰かの視線に怯えずにいたい。
そのために払った百万円だった。
高すぎる授業料だと思う。
しかも、卒業証書はもらえない。
もらえるのは、包帯と痛みと、「もう二度と自分を粗末にしない」という妙に現実的な決意だけだ。
だから、昔の私と同じように迷っている人がいるなら、これだけは言いたい。
その気持ちは、誰かに話していい。
逃げてもいい。
休んでもいい。
泣いてもいい。
でも、自分の体に一生残る形で刻まないでほしい。
今の痛みは、今のあなた全部じゃない。
でも、残った痕は、未来のあなたを何度も困らせる。
私の腕はいま、包帯で真っ白だ。
過去をなかったことにはできない。
でも、これからの自分まで過去に支配させるつもりはない。
百万円かけて、ようやく分かった。
自分を傷つけるのは一瞬でも、その後始末は本当に高い。
お金も。
時間も。
心も。