「別れるなら、そのコート代“1万円以上”返してくれる?」
その一言を聞いた瞬間、私は思わず聞き返した。
「……コート代?」
去年の冬、彼が突然持ってきたコート。
紙袋を差し出しながら、少し得意そうに言ったのを覚えている。
「これ、わざわざ買ってきた。絶対似合うと思ってさ。」
正直に言うと、私はそのコートを見た瞬間、
「ちょっと微妙かも」と思った。
形も色も、私の好みではなかった。
でも彼が「似合うと思って選んだ」と言うから、
その場では笑って「ありがとう」と言った。
家に帰ってからも、一度も着ていない。
クローゼットの奥に、そのまま掛けてあった。
彼のプレゼントだったから、
なんとなく処分する気にもなれなかっただけだ。
それなのに別れ話の最後、彼は平然と言った。
「まあ特価だったけどさ。でも俺が買った特価だから。」
そして続けた。
「返すなら原価でいいよ。1万円以上。」
私はしばらく彼の顔を見ていた。
プレゼントだと思っていたものを、
別れる時に“原価で返せ”と言う人の顔を。
でもその場では何も言わなかった。
「わかった」とだけ答えて帰った。
家に帰って、クローゼットを開ける。
あのコートは、去年と同じ場所にまだ掛かっていた。
私はハンガーから外してテーブルの上に置く。
一度も着ていないコート。
ふと、値札がまだ付いていることに気づいた。
そういえば、外していなかった。
なんとなく裏返す。
その瞬間、私は思わず小さく息を吐いた。
税込 10,989円
その下に、赤いシール。
値下げ 770円
私はしばらくその数字を見ていた。
一万円以上、と言っていたコート。
実際は770円。
怒りというより、
「ああ、なるほど」という気持ちだった。
スマホを取り出して、値札の写真を撮る。
でもその写真は、まだ送らない。
代わりに私はメモアプリを開いた。
そして思い出しながら書き始める。
彼の誕生日プレゼント。
二人で行った旅行代。
何度も奢ったレストラン代。
ホテル代。
彼が欲しいと言った財布。
全部書き出して、最後に合計を出した。
合計 102,480円
私はその画面をスクリーンショットして、彼にLINEを送る。
「別れるなら、全部清算しよ。」
続けて画像を送信。
数秒で既読がついた。
すぐに返信が来る。
「え?」
「なにこれ?」
「こんなの請求するの?」
私はソファに座ったまま画面を見ていた。
そして次のメッセージ。
「それはプレゼントだろ?」
私は思わず笑ってしまった。
さっきまでコート代を請求していた人が、
今度は「それはプレゼントだろ」と言う。
私はゆっくり返信を打つ。
「あなたが言ったんじゃない。」
送信。
「別れるなら清算するって。」
既読がつく。
しばらく沈黙。
そして彼から短いメッセージ。
「コートは別だろ。」
私はそこで初めて、
さっき撮った写真を送った。
コートの値札。
値下げ 770円
既読。
返信は来ない。
私は銀行アプリを開いた。
送金画面。
金額に入力する。
770
備考欄に書く。
「原価返金」
送信。
少しして彼からメッセージが来た。
「普通そこ見る?」
私は最後に一言だけ送った。
「あなたが教えてくれたルールだよ。」
スマホを置いて、テーブルの上のコートを見る。
一度も着ていないコート。
似合わないと思ったけれど、
彼のプレゼントだから残していたコート。
私はそれを袋に入れて、玄関に置いた。
もう着ることはない。
少なくとも一つだけはっきりしていた。
770円のコートは着なかったけど、
その人の本性は、ちゃんと見えた。
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