「露天風呂で、子どもがおしっこした。」
最初は、見間違いかと思った。
夕方の温泉。
まだ人もそれなりにいて、露天風呂には10人くらい浸かっていた。
その端で、小学校低学年くらいの男の子が立ったまま、
そのまま湯の中におしっこしていた。
一瞬、空気が止まった。
近くにいた人も気づいて、顔を見合わせている。
私は思わず声をかけた。
「ここ温泉ですよ。」
すると少し離れた場所から、男の子の父親らしい男性が近づいてきた。
父親は男の子を見て、
そして私の方を見て、こう言った。
「子供だから問題ない。」
その言い方が、あまりにも当たり前のようだった。
私は一瞬言葉を失った。
周りの人たちもざわざわしている。
私はもう一度言った。
「いや、温泉ですよ。
ここでおしっこはさすがに…」
すると父親は眉をひそめた。
そして次の瞬間、
露天風呂の湯の中にツバを吐いた。
そして、こちらを睨みつけてきた。
露天風呂の空気が一気に重くなった。
近くにいた人たちも、完全に引いている。
父親は低い声で言った。
「何が悪い?」
さすがに頭にきた。
私は少しだけ肩をすくめて言った。
「童子蛋って知ってる?」
父親は一瞬きょとんとした顔をした。
私は続けた。
「子供のおしっこで卵をゆでる料理。
健康にいいとかで食べる文化あるでしょ?」
周りの人たちが「え?」という顔をした。
父親の顔が少し赤くなった。
私は静かに言った。
「でもね。」
少し間を置いてから言った。
「ここ、日本だから。」
そしてもう一言。
「温泉はトイレじゃない。」
その瞬間、横にいた年配の男性が口を開いた。
「その通りだ。」
声は大きくなかったが、
露天風呂の中でよく響いた。
男性は父親を見て言った。
「ここはみんなが使う温泉だ。
子供でもダメなことはダメだ。」
別の客も言った。
「常識だろ。」
空気が完全に変わった。
さっきまで睨んでいた父親が、
今度は周りを見回している。
誰も味方はいない。
むしろ、全員が冷たい目で見ている。
男の子は父親の腕を引いた。
「パパ、もう出よう…」
父親は何も言わなかった。
そのまま男の子の手をつかんで、
露天風呂から上がった。
脱衣所の方へ歩いていく背中を、
露天風呂の全員が黙って見ていた。
数秒後。
さっきの年配の男性が、ため息をついた。
「最近、マナー知らない人増えたな…」
誰かが苦笑した。
「ほんとですよ。」
私は湯に浸かりながら、空を見上げた。
さっきまでの緊張が、ゆっくり溶けていく。
静かな露天風呂が戻ってきた。
温泉は、
誰か一人のものじゃない。
みんなが気持ちよく使う場所だ。
だからこそ――
守るべきものは、守らないといけない。
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