新幹線に乗ってしばらく経った頃だった。
車内は静かで、誰もが思い思いに過ごしている。グリーン車特有の落ち着いた空気。
――その空気が、ある瞬間に壊れた。
最初に違和感を覚えたのは、臭いだった。
ほんのり、でも確実に漂ってくる不快な匂い。
「……なんだこれ」
顔をしかめて視線を上げた瞬間、原因が分かった。
前の席から突き出ている裸足。
しかもその足は、座席の上に乗せられ、完全にこちら側に向かって伸びている。
距離は、せいぜい30センチ。
――そして、その足から、あの臭い。
「マジかよ……」
思わず小さく呟いた。
一度は目を逸らした。
「そのうち下ろすだろう」
そう思ったからだ。
だが、1分、5分――
一向に動く気配がない。
むしろリラックスしているのか、指がゆっくり動いている。
完全にくつろいでいる。
臭いも、だんだん強くなってきた。
正直、限界だった。
私は前の座席を軽く叩いた。
「すみません」
男が振り返る。
20代後半くらい、イヤホンを外しながら、明らかに面倒そうな顔。
「なんすか?」
「足、こちらに来てるので、下ろしてもらえますか」
すると男は、自分の足をちらっと見て、平然と言った。
「え?当たってないですよね?」
――は?
「いや、当たるとかじゃなくて、近いし…臭いも…」
そこまで言いかけた瞬間、男は不機嫌そうに遮った。
「別に触れてないなら問題ないっしょ」
「神経質すぎじゃないですか?」
完全に開き直りだった。
私は一瞬、言葉を失った。
だが、すぐに言い返した。
「ここ公共の場ですよね?」
「裸足を座席に乗せて、そのままって普通じゃないと思いますけど」
男は鼻で笑った。
「金払って乗ってるんで」
「どう座ろうが自由でしょ」
その一言で、完全にスイッチが入った。
「じゃあ他人に迷惑かけてもいいってことですか?」
「臭いもしてるし、こっちは避けようがないんですけど」
すると男は、明らかにイラついた顔で言った。
「そんなに気になるなら、そっちがどけばいいじゃん」
その瞬間、周囲の空気がピリッと張り詰めた。
誰も何も言わない。
でも、全員が聞いている。
――もういい。
私は無言で、手元のペットボトルを持った。
キャップを開ける。
男が怪訝そうな顔をした。
次の瞬間。
その足に、水をかけた。
「うわっ!?何してんの!?」
男が飛び上がる。
車内が一気にざわついた。
私は静かに言った。
「すみません、あまりにも汚そうだったので」
「洗ってあげようと思って」
一瞬、完全な沈黙。
そして――
「はぁ!?ふざけんなよ!」
男が立ち上がる。
顔は真っ赤だった。
だが私は一歩も引かなかった。
「靴も履かずに、他人のスペースに足突っ込んでる方がどうかと思いますけど」
その時だった。
後ろの席から声が飛んだ。
「それはあんたが悪いだろ」
年配の男性だった。
続けて、通路側の女性も言う。
「正直、ずっと臭ってました」
「我慢してたけど、限界でした」
さらに別の乗客も。
「公共の場でそれはないわ」
一気に流れが変わった。
さっきまで黙っていた空気が、完全に“こちら側”に傾いた。
男の表情が崩れる。
「……チッ」
そのタイミングで、車掌が駆け寄ってきた。
「どうされましたか?」
周囲の乗客が一斉に説明する。
車掌は状況を聞き終えると、男に向き直った。
「お客様、座席に足を乗せる行為はご遠慮ください」
「また、他のお客様のご迷惑になりますので」
はっきりとした口調だった。
男は何も言えなかった。
周囲の視線が突き刺さっている。
逃げ場はない。
そして、舌打ちを一つして、足を引っ込めた。
車内に、ふっと静けさが戻る。
私はゆっくりと背もたれに寄りかかった。
さっきまでの不快感が、嘘のように消えていた。
後ろの男性が小さく言った。
「よくやった」
私は軽く会釈した。
窓の外には流れる景色。
そして、元の静かな車内。
私は思った。
我慢してたら、何も変わらなかった。
でも――
一歩踏み出した瞬間、全部が動いた。
そして心の中で、はっきりと言い切った。
マナーを守らない自由なんて、存在しない。