渋沢栄一の一万円札が出てから、もうずいぶん経つ。
最近は財布の中を見ても、新しい顔にだいぶ慣れてきた。
でも、その日、私の財布に入っていたのは昔の一万円札だった。
聖徳太子。
今の若い人には、少し珍しく見えるかもしれない。
でも、もちろん本物だ。
昔から使われてきた、ちゃんとした日本銀行券。
私は特に深く考えず、その一万円札を会計で出した。
金額は普通の買い物だった。
レジの前で財布を開き、札を一枚取り出して、店員さんに渡す。
ただ、それだけのはずだった。
ところが、店員さんの手が止まった。
一万円札をじっと見る。
裏返す。
もう一度見る。
その顔が、だんだん固くなっていく。
私はその様子を見て、少し嫌な予感がした。
「どうしました?」
そう聞く前に、店員さんが大きめの声で言った。
「これ、偽札じゃないですか?」
店内の空気が止まった。
偽札。
その言葉だけが、やけに大きく響いた。
隣のレジの人もこっちを見る。
後ろに並んでいた客も、微妙に距離を取る。
私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「いや、本物ですよ」
そう言っても、店員さんは納得しない。
「見たことないので」
見たことない。
その一言で偽札扱いされる時代が来たのか。
私は頭の中で、聖徳太子に少し同情した。
昔は堂々と一万円札の顔だったのに、今ではレジ前で身分証明を求められている。
やがて店長らしき人が来た。
店員さんは、その札を見せながら説明した。
「このお客様が、偽札みたいなお金を出してきて……」
偽札みたいなお金。
言い方がさらに悪くなっている。
私は静かに言った。
「古い一万円札です。使えるはずです」
店長も札を見た。
眉をひそめた。
「警察を呼びます」
その瞬間、私はさすがに笑いそうになった。
笑う場面ではない。
でも、あまりにも展開が急すぎた。
買い物に来ただけなのに、いつの間にか通貨偽造の疑いである。
私は逃げる理由もないので、そのまま待った。
店内の端で、まるで事情聴取前の容疑者みたいに立っている。
周囲の視線が痛い。
財布にはレシート用の小銭と、疑われた聖徳太子。
気まずい。
本当に気まずい。
しばらくして、警察官が来た。
店長は少し強気な顔で事情を説明した。
「偽札と思われるものを出されたので」
警察官は札を受け取り、確認した。
そして、すぐに表情を変えた。
私ではなく、店長の方を見た。
「これは旧一万円札ですね。現在も有効です」
その一言で、店内の空気が一気にひっくり返った。
私は何も言っていない。
でも心の中では、机を叩いていた。
ほら見ろ。
聖徳太子、無罪。
警察官は続けた。
「確認せずに偽札と決めつけるのは困ります。お客様に失礼ですし、騒ぎにする前に調べてください」
店長の顔が赤くなった。
さっきまでの勢いは、どこかへ消えていた。
店員さんも下を向いている。
私はその場で、妙に冷静になった。
怒鳴りたい気持ちがなかったわけではない。
でも、警察官がきっちり言ってくれたので、こちらが大声を出す必要はなかった。
むしろ、静かにしていた方が効く。
店長は小さく頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
私は財布に戻された一万円札を見た。
今日一番疲れたのは、私ではなくこの札かもしれない。
長年日本で流通してきたのに、令和のレジでいきなり偽札扱い。
歴史ある紙幣も大変である。
会計は別の札で済ませた。
さすがに、その場でまた聖徳太子を出す気にはなれなかった。
店を出ると、外の空気がやけに軽く感じた。
ただ買い物をしたかっただけなのに、警察まで呼ばれるとは思わない。
家に帰ってから、私は改めてその一万円札を机に置いた。
古い。
たしかに古い。
今の札に比べると、色も雰囲気も違う。
でも、偽物ではない。
知らないことは仕方ない。
若い店員さんが見たことなくても、それは責めない。
ただ、知らないなら調べればいい。
確認すればいい。
いきなり「偽札」と言って警察を呼ぶ前に、できることはある。
今回、警察官にめちゃくちゃ叱られたのは私ではなかった。
店長だった。
そこだけは、少しだけスッとした。
聖徳太子の一万円札は、今もちゃんと使える。
ただし、使う場所によっては、会計より先に時代説明が必要になるらしい。