その噂を聞いたのは、近所の喫茶店だった。
「難民申請が認定された外国人が、あの新しい家に住んでるらしいよ」
隣の席から、そんな声が聞こえた。
声を潜めているつもりなのだろうが、妙に耳に残る言い方だった。
「しかもベンツにハリアーだって」
「一軒家でしょ?」
「どこが難民なんだか」
私はコーヒーを飲む手を止めた。
正直、気になった。
羨ましさなのか。
違和感なのか。
それとも、ただの野次馬根性なのか。
自分でもよく分からない。
でも、その言葉は頭の中に引っかかった。
数日後、用事で近くを通った時、私はその家の前で足を止めた。
白い壁の大きな家。
玄関前にはきれいに整えられた庭。
左に黒い高級車。
右に白いSUV。
たしかに、噂で聞いた通りだった。
私は思わず眉をひそめた。
「すごいな……」
口から出た声は、少し冷たかったと思う。
その時、玄関前に男性が立っていた。
電話をしているようで、少し疲れた顔をしていた。
私は慌てて目をそらした。
じろじろ見るのは失礼だ。
分かっている。
でも、一度気になったものは、なかなか視線から消えない。
頭の中で、勝手な推理が始まった。
本当に難民なのか。
どうやってこの家を買ったのか。
車は誰のものなのか。
支援金なのか。
仕事なのか。
そもそも噂は本当なのか。
そう考えた瞬間、自分で自分に引っかかった。
噂は本当なのか。
私は何も知らない。
名前も知らない。
家族構成も知らない。
仕事も知らない。
申請の有無すら知らない。
ただ、喫茶店で聞いた話と、家の前に停まった車だけで、勝手に物語を作ろうとしていた。
その時だった。
隣の家の奥さんが、買い物袋を持って歩いてきた。
私に気づくと、軽く会釈をした。
「こんにちは」
私は少し迷ってから、遠回しに聞いた。
「あの家、最近越してきた方ですか?」
奥さんは「ああ」と笑った。
「そうそう。ご主人、日本で会社やってる方よ。前からこの辺に倉庫借りてたみたい」
私は固まった。
「会社、ですか?」
「うん。輸入関係だったかな。奥さんも日本語上手でね。子どもさんも学校に通ってるわよ」
私の中で、さっきまで作っていた雑な物語が音を立てて崩れた。
奥さんはさらに続けた。
「なんか変な噂もあるみたいだけどね。ああいうの、怖いわよね。車がいいだけで勝手に言われるんだから」
その一言が、胸に刺さった。
私は何も言えなかった。
まさに、その「勝手に言う側」に片足を突っ込んでいたからだ。
難民。
外国人。
高級車。
一軒家。
それらを並べただけで、何か不正があるように見えてしまう。
でも、それは証拠ではない。
ただの連想だ。
しかも、かなり雑で危ない連想だ。
私は家の方をもう一度見た。
白い壁。
黒い車。
白いSUV。
さっきまで違和感の象徴に見えていたものが、急に普通の生活に見えた。
誰かが働いて買った家。
誰かが家族を守るために選んだ場所。
誰かが毎月ローンを払っているかもしれない生活。
そこに、外から勝手な言葉を貼りつけるのは簡単だ。
でも、貼られる側はたまったものではない。
噂は軽い。
言う側にとっては、暇つぶしの雑談だ。
しかし、言われる側には重い。
家の前に停まる車まで監視され、暮らし方まで品定めされる。
それはもう、近所話ではなく、無責任な裁判だ。
私はその場を離れながら、恥ずかしくなった。
一番怖いのは、誰かの悪意ではなく、自分の中の「見ただけで分かった気になる癖」だった。
高級車に乗っているから怪しい。
一軒家に住んでいるからおかしい。
外国人だから何か裏がある。
そんなふうに考え始めた瞬間、こちらの想像力はかなり貧しくなる。
後日、またその家の前を通った。
今度は、子どもが玄関先で笑っていた。
奥さんらしき人が花に水をやっていた。
男性は車のそばで荷物を下ろしていた。
ただの朝だった。
どこにでもある、家族の朝だった。
私は少しだけ頭を下げて通り過ぎた。
誰にも気づかれない程度に。
噂を聞いて見に行った自分が、少し情けなかった。
けれど、見に行ったことで気づけたこともある。
家の前の車より、他人の暮らしを勝手に疑う目の方がよほど厄介だ。
「どこが難民なんだ」と言う前に、まず「自分は何を知っているんだ」と聞くべきだった。
今日の収穫は、高級車の写真ではない。
私の中にあった安っぽい偏見の方だった。