その居酒屋に入った瞬間、私は少しだけ身構えた。
駅裏の細い路地にある、小さな店だった。
のれんは少し色あせていて、入口の横には手書きのメニュー。
店内からは焼き鳥の煙と、笑い声と、グラスがぶつかる音が混ざって漏れていた。
友人が言った。
「ここ、変な店だけど面白いらしいよ」
変な店。
その言い方がすでに不安だった。
でも、金曜の夜だ。
仕事で削られた魂には、多少変な店くらいがちょうどいい。
そう思って席についた。
カウンターの上には、紙が一枚貼ってあった。
私は何気なく目をやった。
そして、箸を持つ前に固まった。
「おい、生ビール」……一〇〇〇円。
「生一つ持ってきて」……五〇〇円。
「すいません、生一つください」……三八〇円。
私は二度見した。
ビールの値段が、銘柄ではなく態度で変わる。
なんだこの人間性査定システム。
友人は笑いをこらえながら言った。
「これ、めっちゃ良くない?」
良いか悪いかで言えば、かなり良い。
ただ、怖い。
普段の自分の注文が、いくらに分類されるのか試されている気分になる。
店員さんが水を置きに来た。
私はいつもより背筋を伸ばした。
「あ、すいません、生一つください」
声が少し裏返った。
店員さんはにこっと笑った。
「はい、生一つですね」
その瞬間、私は勝ったと思った。
三八〇円の人間。
礼儀正しい客。
社会性あり。
自己評価が少し上がった。
隣の席では、会社帰りらしき男性が大きな声で言った。
「おい、生ビール!」
店内が一瞬だけ静かになった。
店員さんは無表情で伝票に何かを書いた。
私は見逃さなかった。
あれはたぶん一〇〇〇円だ。
男性は気づいていない。
自分の横柄さが、六二〇円上乗せされていることに。
私は心の中で合掌した。
態度は無料ではなかった。
しかし、その紙には続きがあった。
長い文章だった。
「はわわわ……!ここはどこ? あの……すみましぇん、ぼくは一体どこに来ちゃったんでしょう? 居酒屋? そんな!みんなとバドミントンしてたはずなのに……」
私は途中で読むのをやめかけた。
何の話だ。
でも、続きを読まずにはいられなかった。
シャトルを追いかけていたら、なぜか居酒屋に迷い込んだらしい。
そしてビールを飲まされ、
「苦いです!」
と泣き、
「なんだかぽわぽわしてきましたぁ」
となり、
最後にもう一杯飲みたくなる。
ここまではまだ分かる。
分からないけど、勢いで分かることにした。
問題は最後だった。
「え?自分で頼め?わかりましたぁ、おい、生ビール」……一〇〇〇円。
私は吹き出した。
結局、そこに戻るのか。
どれだけ可愛い前置きをしても、最後が「おい、生ビール」なら一〇〇〇円。
情状酌量なし。
長い物語も、泣き声も、バドミントンも、すべて無効。
人間、最後の一言で値段が決まる。
これはもう、居酒屋のメニューではなく人生訓だった。
友人が言った。
「つまり、途中どれだけキャラ作っても、注文が偉そうならアウトってことだね」
私はうなずいた。
深い。
あまりにも深い。
たぶん店主は、何度も嫌な言い方をされてきたのだろう。
忙しい時に「おい」と呼ばれた。
ビールを投げるように頼まれた。
店員を人ではなくボタンみたいに扱う客を見てきた。
その積年の怒りが、ついに価格表になった。
怒鳴るのではない。
説教するのでもない。
ただ値段を変える。
礼儀三八〇円。
雑な命令五〇〇円。
横柄一〇〇〇円。
実に分かりやすい。
私は二杯目を頼む時も、慎重だった。
「すいません、生一つお願いします」
さらに丁寧にした。
店員さんは笑った。
「ありがとうございます」
その一言で、ビールが少しうまく感じた。
隣の男性は、伝票を見て固まっていた。
「え、なんでビール一〇〇〇円?」
店員さんは、カウンターの紙を指さした。
男性は黙った。
たぶん、人生で初めて自分の「おい」が金額になった瞬間だった。
会計を済ませて店を出る時、私はあの貼り紙をもう一度見た。
ふざけているようで、ものすごく真面目だった。
居酒屋は、料理と酒だけを売っているわけではない。
その場の空気も、店員さんの気分も、客同士の居心地も、全部で成り立っている。
だから、注文の言い方ひとつで値段が変わるくらいの世の中で、ちょうどいいのかもしれない。
それにしても、最後の長文だけは反則だ。
あれだけ泣いて、迷って、ぽわぽわして、最後に「おい、生ビール」。
結局一〇〇〇円。
どんな物語も、礼儀がなければ高くつく。
私はその夜、ビールの味より先に、それを学んだ。