その朝、私はいつものようにスーパーの開店準備をしていた。
入口の自動ドアを拭き、カゴを並べ、特売の札を確認する。
野菜売り場ではキャベツが積まれ、惣菜コーナーからは揚げ物の匂いがしていた。
何も変わらない朝だった。
ただ一つだけ、変わったことがあった。
四月十五日から、お客様用トイレを再び開放したのだ。
以前から「トイレを貸してほしい」という声は多かった。
買い物中の高齢のお客様。
小さな子ども連れのお母さん。
体調の悪そうな人。
そういう人を見るたびに、貸せるなら貸したいという気持ちはあった。
だから、店長も悩んだ末に決めた。
「ルールを守って使ってもらえるなら、開放しよう」
それが始まりだった。
最初の数日は平和だった。
普通に使われ、普通に戻ってくる。
清掃もいつも通り。
私は少し安心していた。
「やっぱり開放してよかったですね」
そう店長に言ったのも覚えている。
ところが、その安心はあまりにも早く終わった。
昼過ぎ、パートさんが真っ青な顔で事務所に飛び込んできた。
「店長、トイレ……ちょっと見てください」
その声の震え方で、ただの汚れではないと分かった。
店長と私で向かった。
トイレの前に近づいた時点で、空気が重かった。
清掃用具を持ったパートさんが、入口で立ち尽くしている。
私は恐る恐る中をのぞいた。
そして、言葉を失った。
何がどうなったら、ここをそう使うのか。
誰が何の目的で、そんなことをするのか。
理解が追いつかなかった。
普通に使った結果ではない。
うっかり汚した、という話でもない。
明らかに、本来の使用用途とは違う。
悪ふざけ。
嫌がらせ。
あるいは、店を困らせるための行為。
そうとしか思えない状態だった。
店長はしばらく黙っていた。
その横顔が、だんだん冷えていくのが分かった。
「これは無理だな」
低い声だった。
怒鳴らないぶん、余計に怖かった。
私たちはすぐに使用を止め、清掃業者に連絡した。
その間にも、お客様から「トイレ使えますか」と聞かれる。
事情を説明できるわけもない。
「現在、使用できません」
そう答えるしかなかった。
困った顔をされるたびに、こちらも申し訳なくなる。
でも、原因を作った人間はそこにいない。
本当に困る人だけが困る。
こういう迷惑行為の一番腹立たしいところは、それだ。
やった本人は一瞬の悪ふざけで帰る。
後始末は店。
費用も店。
苦情を受けるのも店。
そして本当に必要としていたお客様が使えなくなる。
誰が得をしたのか分からない。
ただ、全員が嫌な気持ちになるだけだ。
結局、警察へ報告することになった。
店長は防犯カメラの確認、時間帯の整理、関係者への連絡で一日中動いていた。
「威力業務妨害として相談します」
その言葉を聞いた時、私は初めて事の重さを実感した。
トイレの問題で警察。
普通なら大げさに聞こえるかもしれない。
でも、現場を見たら誰でも納得する。
これは清掃の範囲を超えている。
店の業務を止め、従業員の手を奪い、客の利用まで制限させた。
ただのマナー違反では済まない。
翌日、入口に貼り紙を出した。
大きな黒い文字で、はっきり書いた。
「この度四月十五日よりトイレの解放を致しましたが、本来の使用用途とは異なる考えられない使用をされた為、トイレは無期限の閉鎖をすることと致しました」
貼りながら、私はため息をついた。
こんな文章、人生で書くと思わなかった。
「トイレの貸出は致しません」
この一文の重さ。
本当は、貸したかった。
困っている人には使ってほしかった。
でも、一人の非常識が、その全部を潰した。
貼り紙を読んだお客様が、何人も足を止めた。
「え、何したの?」
「そんなにひどかったの?」
「スーパーがここまで書くって相当だね」
その通りだ。
相当だった。
でも、詳細を説明する気にはなれない。
説明したところで、誰も幸せにならない。
私はただ、心の中で思った。
トイレで何をしたんだよ、と。
いや、本当に。
スーパーのトイレは、挑戦状を書く場所ではない。
自由研究の実験室でもない。
店員の忍耐力を試すアトラクションでもない。
ただ、用を足す場所だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
今回の件で、店は完全に学んだ。
善意だけでは設備は守れない。
「普通に使ってくれるだろう」という信頼は、たった一人の非常識で壊れる。
そして壊れた信頼は、トイレットペーパーみたいにすぐ補充できない。
今後、うちのトイレは貸し出さない。
本当に必要な人には申し訳ない。
でも、あの現場を見たあとで「どうぞご自由に」とは言えない。
犯人には、ぜひ警察の前で説明してほしい。
なぜ、スーパーのトイレをそこまで怒らせたのか。
こちらとしては、もう商品よりそっちの方が気になっている。