夜の電車だった。
仕事帰りの時間で、車内はそこそこ混んでいる。
私はドア横のスペースに立って、つり革につかまっていた。
右手には、仕事用のトートバッグ。
パソコンと書類が入っている、少し重いバッグだ。
電車が揺れるたびに、
バッグが足に当たらないように少し体を寄せていた。
そのときだった。
突然、
ぐいっとバッグが引っ張られた。
「え?」
一瞬、何が起きたのか分からない。
ストラップが引っ張られて、
私は半歩よろけた。
振り向くと、
目の前に見知らぬ女性が立っていた。
白いベストに、黒いパンツ。
片手にはショッピングバッグ。
そしてもう片方の手で、
私のバッグのストラップを握っていた。
「それ、邪魔なんだけど。」
低い声で、そう言った。
私は一瞬固まった。
「え…?」
「バッグ、当たってる。」
女性はそう言って、
私のバッグをもう一度ぐいっと引いた。
車内の何人かが、こちらを見た。
私は慌てて言った。
「すみません、でもこれは私の――」
言い終わる前だった。
その女性が突然、
足を振り上げた。
黒い靴が、
私の膝の前まで上がる。
蹴るつもりだったのか、
それとも威嚇だったのか。
一瞬、時間が止まった。
周りの空気も、凍った。
近くにいた男性が小さく言った。
「え、ちょっと…」
私は思わず一歩下がった。
そして、
ゆっくりその女性を見た。
正直、
怖いというより――
呆れていた。
「……あの。
」
私は静かに言った。
女性はまだ睨んでいる。
「バッグ邪魔なんだけど。」
もう一度言った。
その瞬間、
私はあることに気づいた。
女性のショッピングバッグ。
そこから、
長い紙袋の角が飛び出していた。
電車が揺れるたびに、
その紙袋が周りの人に当たっていた。
しかも、
私の足にも。
私はそれを指さした。
「それ、さっきから私にも当たってます。」
女性の顔が一瞬止まった。
私は続けた。
「さっきからずっとです。」
「……」
女性は黙った。
周りの視線が集まる。
隣にいたサラリーマンが、
小さく笑った。
私は静かに言った。
「あと。」
女性がこちらを見る。
私は、自分のバッグを持ち上げて見せた。
「私、ずっと体に寄せてました。」
そして。
女性の紙袋を見た。
「でもそれ、ずっと振り回してますよね。」
車内が、少しざわついた。
後ろから誰かが言った。
「確かに。」
別の人も言った。
「さっきから当たってたよ。」
女性の顔が、赤くなった。
「……」
さっきまでの勢いが、
一気に消えていた。
私は最後に、静かに言った。
「公共の場所なので。」
「お互い、気をつけましょう。」
数秒の沈黙。
そして女性は、
何も言わずに
隣の車両に移動した。
ドアが閉まると、
さっきのサラリーマンが小さく言った。
「すご…」
別の人も笑った。
「蹴るのはやばいでしょ。」
私は苦笑した。
正直、
まだ少し心臓が速かった。
でも。
電車の窓に映った自分を見て、
ふっと思った。
もしあのとき、
怒鳴り返していたら。
多分、
ただの喧嘩になっていた。
でも。
静かに言った一言で、
車内の空気は
全部、ひっくり返った。
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