新幹線のグリーン車に乗る理由は、ただ一つだ。静かだから。
普通車より高い料金を払ってでも、仕事をしたり、少し眠ったりできる落ち着いた空間を買っているつもりだった。
だが、その日――その静けさは、完全に壊されていた。
「おいおい!もう一本いくか!」
カンッ。
酒瓶がぶつかる音。
「ええやんええやん!今日は旅行や!」
ガハハハハ!
関西弁の大声が、車内に響き渡る。
グリーン車の静かな空間に、完全に場違いな宴会が始まっていた。
声の主は、60代くらいの男が6人。
座席を向かい合わせにして、テーブルには缶ビール、ハイボール、つまみ。
完全に居酒屋状態だった。
しかも声がでかい。
普通の会話の音量じゃない。
「ほんでな!あの部長がな!」
「アホちゃうか!」
「せやろ!」
ガハハハハ!
笑い声が、車両全体に響く。
さらに問題なのは、酒の匂いだった。
ビールと焼酎の混ざったような匂いが、車内に広がっている。
隣の席の女性は明らかに顔をしかめている。
前の席の男性も何度も振り返っている。
それでも――
誰も何も言わない。
理由は簡単だ。
相手が酔っ払い6人だから。
私はしばらく我慢した。
でも、10分、20分と経っても宴会は終わらない。
むしろ盛り上がっている。
「おい次!乾杯や!」
カンッ!
また瓶がぶつかる。
笑い声。
テーブルを叩く音。
さすがに限界だった。
私は席を立った。
車両の後ろにいる車掌を探す。
そして声をかけた。
「すみません」
車掌はすぐに振り向いた。
「はい、どうされましたか?」
私は小声で言った。
「向こうの席で、飲んで騒いでいる人たちがいて……かなりうるさいんです。注意していただけませんか?」
車掌は一瞬、そちらの方向を見た。
6人の宴会。
「おーいもう一本!」
「まだ飲めるやろ!」
笑い声。
そして私の顔を見て、深く頭を下げた。
「誠に申し訳ございません」
そして続けた。
「すぐに、お客様の席を別の車両にご案内いたします」
私は一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「グリーン8号車に空席がございますので、そちらにご案内します」
私は思わず聞いた。
「えっと……移動するのは、私ですか?」
車掌は申し訳なさそうに頷いた。
「はい……」
少し声を落として言った。
「正直申し上げますと……あちらは6名様で、すでにかなりお酒が入っておりまして……」
ちらっと後ろを見る。
「注意しても、状況が悪化する可能性が高いんです」
なるほど。
つまりこういうことだ。
6人の酔っ払いを相手にするより、1人を移動させた方が早い。
それが現実的な判断。
私は少し苦笑した。
理不尽だけど、理解はできる。
車掌も困っている顔をしていた。
「本当に申し訳ございません」
もう一度、深く頭を下げる。
私はため息をついた。
そして言った。
「……分かりました」
荷物を持ち、車掌の案内で8号車へ移動する。
通路を歩くとき、あの宴会の横を通った。
「おっ、どこ行くん?」
一人が言った。
私は答えなかった。
後ろでは、まだ笑い声。
「ははは!静かな人やな!」
ドアが閉まる。
8号車。
そこは、驚くほど静かだった。
パソコンのキーボード音。
新聞をめくる音。
小さな咳。
それだけ。
さっきまでいた車両が、まるで別世界のようだった。
席に座る。
静寂。
私は思った。
グリーン車って、本来こういう場所だよな。
しばらくすると、車掌がやってきた。
「ご不便をおかけして申し訳ありません」
再び頭を下げる。
私は笑って言った。
「大丈夫です」
そして小さく付け加えた。
「でも、ちょっと不思議ですよね」
車掌は首を傾げる。
「はい?」
私は言った。
「騒いでいる人はそのままで、迷惑している人が移動するんですね」
車掌は少し困った顔をした。
そして静かに言った。
「……正直に申し上げますと」
「酔っている方が複数いらっしゃる場合、注意しても聞いていただけないことが多いんです」
「それどころか、トラブルになる可能性もありまして」
私は頷いた。
確かに、6人の酔っ払い。
車掌は1人。
揉めたら、もっと大事になる。
結局この国では――
理屈が通じる側が、譲る。
それが一番早い解決方法なのだ。
窓の外を見る。
新幹線は静かに走っている。
さっきの宴会の笑い声は、もう聞こえない。
静かなグリーン車。
ようやく、本来の空間に戻った。
ただ一つ、思った。
もしあの6人が――
ここに移動してきたらどうしよう。
その想像だけで、私は少し笑ってしまった。