朝、大学へ向かう途中だった。
キャンパスに入って、いつもの駐輪スペースに向かった瞬間、私は思わず足を止めた。
「あれ……?」
昨日まで確かに停めてあったはずの自転車が――ない。
一瞬、場所を間違えたのかと思った。
大学の駐輪場は広いし、急いで停めると場所を勘違いすることもある。
私は周りをぐるっと見て回った。
でも、どこにもない。
昨日の夜、授業が終わったあとここに停めた。
それははっきり覚えている。
胸の奥が、じわっと冷たくなった。
「……盗まれた?」
大学の中とはいえ、自転車の盗難は珍しくない。
友達も何人か被害にあったと言っていた。
でも、まさか自分がやられるとは思っていなかった。
しばらくその場に立ち尽くしたあと、私は深くため息をついた。
警察に行くべきかとも思ったが、
正直、戻ってくる可能性は低いと聞く。
それでも、何もしないのは悔しかった。
そこで私は、コンビニで紙とペンを買ってきて、
自転車を停めていた場所の近くの壁に一枚の紙を貼った。
そこにこう書いた。
「2月7日の夜、この場所から自転車を持っていった人へ
怒らないので返してください。
戻すときはここで大丈夫です。
※2週間以内に返ってこなければ大学と警察に言います」
書きながら、自分でも少し情けない気持ちになった。
でも、怒鳴るより、こういう書き方のほうが
もしかしたら効くかもしれないと思ったのだ。
紙を貼っていると、通りかかった学生がそれを読んでクスッと笑った。
「優しいな…」
もう一人が言う。
「でもこれ、絶対返ってこないやつ」
その言葉に、胸がチクッとした。
でも私は何も言わず、その場を離れた。
そして翌日。
授業に向かう途中、ふと昨日の張り紙のことを思い出した。
「まあ…変わってないよな」
そう思いながら近づくと、遠くからでも違和感があった。
紙の下に、何か書き足されている。
嫌な予感がして、足が早くなる。
近づいて見た瞬間、思わず声が出た。
「は?」
そこには、太いペンでこう書かれていた。
「もう売ったw」
一瞬、頭が真っ白になった。
次の瞬間、怒りが一気に込み上げてきた。
「ふざけんな…」
しかも最後の「w」が妙に腹立たしい。
その頃には、周りに学生が集まり始めていた。
「うわ、なにこれ」
「書いたやつ性格悪すぎ」
スマホで写真を撮る人までいる。
私はしばらく紙を見つめた。
普通なら、悔しくて破り捨てるかもしれない。
でも私は破らなかった。
静かにペンを取り出した。
そして、その挑発の下に、もう一行書いた。
「監視カメラ確認しました」
書いた瞬間、周りがざわついた。
「え、カメラあるの?」
「これヤバいやつじゃない?」
本当のところ、カメラがあるかどうかは分からない。
でも、この一言はきっと効く。
私は紙を貼り直し、その場を離れた。
正直、半分はハッタリだった。
それでも、あんなふざけたことを書かれて終わるのは嫌だった。
そしてその日の夜。
用事があって大学の近くを通ったとき、
なんとなく、あの場所が気になった。
街灯の下に、張り紙がまだ見える。
そして――
その前に、見覚えのある影があった。
私は思わず足を止めた。
そこには、私の自転車が戻ってきていた。
昨日と同じ場所に、何事もなかったかのように。
思わず笑いそうになった。
「マジかよ…」
近づいてみると、張り紙にも変化があった。
例の「もう売ったw」の下に、小さく文字が書き足されている。
「すみません」
その一言だけ。
周りにいた学生がそれを見て吹き出した。
「謝ってるやん」
「ダサすぎる」
誰かが言った。
「監視カメラって書いたの効いたんやろな」
私は何も言わず、自転車のハンドルを握った。
壊れている様子もない。
胸の奥に溜まっていたモヤモヤが、一気に消えていく。
振り返ると、まだ張り紙の前で笑っている学生たちがいた。
誰かが言った。
「これ今年一番おもろい張り紙やな」
私は苦笑しながら、自転車を押してその場を離れた。
後ろから、こんな声が聞こえた。
「でもさ、“w”つけてたやつ、今どんな顔してるんやろな」
その言葉を聞いた瞬間、
私は思わず吹き出してしまった。