「車両のデッキに、アンパンマンの子供椅子を堂々と出して寝ている女がいた。」
最初に見た瞬間、思わず足が止まった。
電車の車両と車両の間、あのデッキのスペース。
人が必ず通る通路の真ん中に、アンパンマンの小さな子供椅子が置かれていた。
しかもその上に、女性が座り込んでいる。
ドアにもたれ、目を閉じている。
どう見ても――寝ている。
デッキは通路だ。
乗客はみんな、ここを通って次の車両へ移動する。
なのに女性は、堂々とその真ん中に椅子を出していた。
通る人はみんな、女性の横を無理やり避けて通っている。
私は次の車両へ移動しようとしていた。
足を止め、軽く声をかけた。
「すみません」
女性のまぶたがゆっくり開いた。
そして私を見た。
その目は、明らかに不機嫌だった。
何も言わない。ただ睨む。
私はもう一度言った。
「通らせてもらっていいですか」
すると女性は、露骨にため息をついた。
「はぁ……」
そして小さく、何かをぶつぶつ言った。
日本語ではない。
舌打ちのような音が混じっている。
だが椅子も体も、ほとんど動かない。
ほんの少し背中を浮かせただけだった。
これでは通れない。
後ろを見ると、いつの間にか人が数人立ち止まっていた。
スーツ姿の男性、キャリーケースを持った女性、年配の夫婦。
みんな困った顔をしている。
私は仕方なく、女性と椅子の隙間を見て、足を跨ぐようにして通ることにした。
正直かなり不安定だった。
椅子は子供用で低いし、女性はドアにもたれている。
電車は走っている。
それでも通るしかない。
私は慎重に足を上げ、その横を跨いでデッキを抜けた。
背後からまた、小さく声が聞こえた。
ぶつぶつ。
明らかに文句を言っている。
少しして、私は同じデッキをもう一度通ることになった。
女性は――
まだ同じ姿勢だった。
アンパンマンの椅子に座り、ドアにもたれている。
後ろには、さっきよりさらに人が増えていた。
誰も強く言えないまま、妙な空気だけが漂っている。
その時だった。
電車が、少し揺れた。
ほんの小さな揺れだった。
だが次の瞬間。
「ガタン!」
大きな音がデッキに響いた。
アンパンマンの椅子が横に倒れた。
女性はドアにもたれていた体の支えを失い、そのまま前へ崩れた。
ドサッ。
デッキの真ん中で、完全にうつ伏せになった。
一瞬、空気が止まった。
誰も声を出さない。
ただ数秒の沈黙。
その沈黙を破ったのは、後ろにいた中年の男性だった。
中国人らしい男性だった。
彼は女性を見下ろし、はっきりと中国語で言った。
「ここは寝る場所じゃない!」
声は思ったより大きく、デッキにいた人たちが一斉に振り向いた。
女性は慌てて顔を上げた。
顔が真っ赤になっている。
一瞬だけ、その男性を睨み返した。
そして何か言い返したようだった。
早口の中国語だったが、私は内容までは聞き取れなかった。
ただ、声は明らかに苛立っていた。
だが周りの空気は、もう完全に変わっていた。
さっきまで何も言えずにいた乗客たちが、静かにその女性を見ている。
逃げ場のない沈黙だった。
女性は舌打ちのような音を立てると、倒れたアンパンマンの椅子を乱暴に拾い上げた。
その黄色い顔が、デッキのライトの下でやけに目立っていた。
そして周りを見ないまま、早足で歩き出した。
誰も止めない。
誰も声をかけない。
ただ、道だけが静かに開く。
女性はそのまま隣の車両へ消えた。
しばらくしても、戻ってくることはなかった。
その時ふと気づいた。
——まだ、次の駅には着いていない。
つまり彼女は、降りる駅でもないのに
そのままどこかへ逃げて行ったらしい。
デッキには、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに静かな空気が戻っていた。
そして誰かが小さく言った。
「最初から、そこに座らなければよかったのにね。」
その言葉に、何人かが小さく笑った。
アンパンマンの椅子だけが、妙に印象に残った出来事だった。
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