「電車で、男が私の目の前で小便を始めた。」
一瞬、何が起きてるのか分からなかった。
でも次の瞬間、理解してしまった。
——ありえない。
私は反射的に立ち上がった。
こんな座席、もう座れない。
気持ち悪くて、すぐその場を離れようとした。
車掌を呼ぼうと思った、その時。
後ろから声がした。
「どこ行くんだよ」
振り返ると、さっきの男。
明らかに酔ってる。
「見たことねぇのかよ、男の小便」
しかも、私の前に立って道を塞いできた。
——は?
正直、怖いはずなのに。
その瞬間、逆に冷静になった。
私は一歩も引かずに言った。
「人前でやるのは、犬くらいですよ」
そう言った瞬間、車内の空気が一気に変わった。
一瞬、静まり返る。
目の前の男も、ほんの一瞬だけ固まった。
でも、すぐに顔を歪めた。
「……は?何だと?」
低い声。
酒臭い息がそのままこっちにかかる。
「女のくせに、偉そうに言ってんじゃねぇよ」
そう言いながら、さらに一歩近づいてきた。
完全に、距離が近い。
逃げようにも、後ろは座席。
横にも動けない。
——でも、もう引く気はなかった。
「それ以上近づかないでください」
はっきり言った。
声は少し大きくなっていたと思う。
周りの人たちが、一斉にこっちを見るのが分かった。
でも、誰も動かない。
目は合うのに、誰も声を出さない。
——ああ、やっぱりこうなるんだ。
男は鼻で笑った。
「何ビビってんだよ」
「だったら最初から黙ってろよ」
完全に、こっちを下に見てる言い方。
さっきまでの“異常な行動”より、
この態度の方が、正直ムカついた。
私は一瞬だけ考えて、すぐにスマホを取り出した。
「……は?何してんの」
男が眉をひそめる。
無視した。
そのまま、通路の方を見て声を出す。
「すみません、車掌さん呼んでもらえますか」
その一言で、空気がまた変わった。
周りの視線が一気に動く。
さっきまで黙ってた人たちが、ざわっとする。
男の顔も、ほんの少しだけ変わった。
「……は?大げさだろ」
さっきより声が弱い。
私はそのまま続けた。
「公共の場で、明らかにおかしい行為なので」
わざと冷静に言った。
感情を乗せない。
それだけで、逆に効く。
男は一瞬黙った。
でも、すぐに取り繕う。
「酔ってただけだろ」
「そんなことで呼ぶとか、頭おかしいんじゃねぇの」
その言葉に、後ろの方から小さな声がした。
「いや…それはちょっと…」
別の人も、ぼそっと。
「さすがに…」
さっきまで何も言わなかった人たちが、
少しずつ、空気を変え始めていた。
——あ、流れ変わった。
その時、車掌が来た。
「どうされましたか?」
落ち着いた声。
私は簡潔に説明した。
「この方が、車内で不適切な行為をしていて」
「移動しようとしたら、通せんぼされました」
車掌は一瞬だけ男を見て、すぐに理解した顔をした。
「お客様、こちらへ」
男に向き直る。
さっきまでの強気な男は、一瞬言葉を詰まらせた。
「……いや、別に大したことじゃねぇだろ」
でも、声が明らかに弱い。
「移動をお願いします」
車掌の声は変わらない。
その後ろで、別の乗務員も来ていた。
逃げ場は完全になかった。
周りの視線も、一気に集まっている。
男は舌打ちした。
「チッ……」
でも、もう何も言えなかった。
そのまま、渋々立ち上がる。
さっきまでの態度が嘘みたいだった。
そのまま、連れていかれる。
完全に、終わった。
車内に、やっと空気が戻る。
「……すみません」
後ろの人が小さく言った。
「怖かったですよね」
私は軽く首を振った。
「大丈夫です」
正直、怖かった。
でも、それ以上に、
あのまま何も言わない方が無理だった。
席に座り直す。
さっきまでの場所は、さすがに無理で、
少し離れた席に移動した。
座った瞬間、やっと力が抜けた。
スマホを握ったまま、深く息を吐く。
ふと、さっきのことを思い出す。
——最初に立ち上がったとき。
あのまま黙って逃げてたら、
たぶん何も変わらなかった。
でも、あの一言で、
全部流れが変わった。
私は小さく呟いた。
「我慢する必要、なかったな」
窓の外を見ながら、
やっと少しだけ、落ち着いた。
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