その日、私はただ寿司屋でお茶を飲もうとしただけだった。
それが、店中がざわつく騒ぎになるとは思っていなかった。
買い物の途中、ふと立ち寄った回転寿司チェーン。
昼時でそこそこ混んでいたが、私はカウンター席に案内された。
席に座ると、いつものように湯呑みが置いてある。
私は何も考えず、お湯の蛇口をひねってお茶を入れた。
その瞬間だった。
「……ん?」
湯呑みの表面に、何かが浮いている。
最初は小さな虫でも入っているのかと思った。
しかしよく見ると違う。
表面に、薄い膜のようなものが広がっている。
光に当たると、虹色にゆらゆらと揺れている。
油だ。
どう見ても油だった。
私は思わず顔をしかめた。
「なんだこれ……」
さすがに気持ち悪くて、その湯呑みは使う気になれない。
私は新しい湯呑みを取った。
そしてもう一度お湯を注ぐ。
すると——
また油膜が浮いた。
私は少しイラッとした。
「……まさか全部こうなのか?」
念のため、三つ目の湯呑み。
お湯を注ぐ。
やっぱり同じだった。
さすがにおかしい。
私は席を立ち、近くの店員に声をかけた。
「すみません、この湯呑みなんですけど」
店員は近づいてきて、湯呑みを覗き込む。
私は指差した。
「これ、油浮いてますよね?」
店員は一瞬だけ見て、すぐに言った。
「問題ありません」
……は?
私は思わず聞き返した。
「いや、これ油ですよね?」
しかし店員は平然としている。
「食洗機で洗っていますので、大丈夫です」
まるで「面倒な客だな」と言いたげな口調だった。
私は少しムッとした。
「じゃあ、これ飲んでみてください」
そう言って湯呑みを差し出した。
店員は一瞬固まった。
「……いえ、それは」
私は続けた。
「問題ないんですよね?」
店員は目を逸らした。
「こちらで交換いたしますので」
私はさらに言った。
「交換じゃなくて、飲めるかどうか聞いてるんです」
店員は完全に黙った。
その様子を、隣の客が見ていた。
「どうしました?」
私は湯呑みを見せた。
「これ、油浮いてるんですよ」
その人は顔を近づけて見た。
「……うわ、本当だ」
向かいの席の客も覗き込む。
「え?なにそれ」
周りの客が次々と湯呑みを確認し始めた。
すると——
「え、うちのも油ある」
「ほんとだ」
「なんだこれ」
店内が一気にざわついた。
さっきの店員の顔が引きつる。
そのとき、後ろの席から声が上がった。
「その店、前もそうだったよ」
振り向くと、年配の男性が苦笑していた。
「この店舗、たまにあるんだよ。洗い方雑で」
ざわめきがさらに広がる。
さすがにまずいと思ったのか、別の店員が慌てて奥へ走っていった。
数分後。
店長らしき人物が出てきた。
「どうされましたか?」
私は湯呑みを差し出した。
「全部これなんですけど」
店長は表面を見て、表情が変わった。
「……少々お待ちください」
そう言って厨房へ消えた。
店内はざわざわしている。
「怖いなこれ」
「皿も大丈夫かな」
「洗えてないんじゃない?」
しばらくして、店長が戻ってきた。
そして深く頭を下げた。
「大変申し訳ございません」
店内が静まり返る。
店長は続けた。
「洗浄機の洗剤が切れておりました」
客席から小さなどよめき。
さらに店長は言った。
「加えて、すすぎの設定も弱い状態になっておりました」
つまり——
まともに洗えていなかったということだ。
店長は再び頭を下げた。
「本当に申し訳ございません」
そして店員に指示を出した。
「すべての湯呑みを交換してください」
店員たちが慌てて動き始める。
そして店長はマイクを手に取った。
「本日ご来店のお客様へお知らせいたします」
店内が静かになる。
「本日の不手際のお詫びとして、本日はお飲み物を無料とさせていただきます」
小さな拍手が起こった。
私は新しい湯呑みを取った。
今度は油膜はない。
やっと普通のお茶が飲めた。
ふと、さっきの店員を見る。
さっきまで「問題ありません」と言っていたその人は、
こちらを見て、気まずそうに目を逸らした。
私は湯呑みを持ち上げながら思った。
もしあのとき、
「じゃあ飲んでみてください」
と言わなかったら——
きっとこの問題は、
誰にも気づかれないままだったのかもしれない。