去年のあの日。
僕は、いつも通りバイクに乗っていた。
特別な予定があったわけじゃない。
急いでいたわけでもない。
ただ、普通に走っていた。
前を見て。
車間を取って。
いつもの道を、いつもの速度で。
その瞬間だった。
対向車線の車が、ふっとこちらへ寄ってきた。
最初は見間違いかと思った。
でも違った。
車はセンターラインを越えていた。
僕の正面に向かってきていた。
逃げる時間なんて、ほとんどなかった。
ブレーキ。
ハンドル。
一瞬の判断。
でも、間に合わなかった。
鈍い衝撃。
体が浮いたような感覚。
音が遠くなる。
空が見えた。
道路が見えた。
そして次に気づいた時、僕は地面の上にいた。
体が動かない。
声もすぐには出ない。
周りに人が集まっている気配だけがした。
「大丈夫ですか!」
誰かの声が聞こえた。
大丈夫なわけがなかった。
でも、そう言うこともできなかった。
救急隊が来た。
首を固定され、担架に乗せられた。
見上げた空は、妙に明るかった。
その明るさが、逆に怖かった。
自分のバイクがどうなったのか。
相手の車がどうなったのか。
何が起きたのか。
頭の中で整理しようとしても、痛みと混乱でうまく考えられなかった。
病院に運ばれた。
検査。
処置。
説明。
警察からの確認。
保険会社とのやり取り。
事故は、ぶつかった瞬間だけで終わらない。
そこから何日も、何週間も続く。
体の痛み。
通院。
仕事への影響。
壊れたバイク。
眠る前に思い出す衝撃音。
後ろから車が近づくだけで、体がこわばる感覚。
それ全部が、事故の続きだった。
それなのに。
ある日、信じられない言葉を聞いた。
「スピード違反ぐらいで騒ぎすぎ」
その瞬間、胸の奥が冷たくなった。
ぐらい?
誰かの運転が少し乱れただけ。
ちょっと速度を出しただけ。
少しセンターラインを越えただけ。
そういう軽さで語れる人は、まだ分かっていない。
車もバイクも、人を簡単に壊す。
一瞬で、日常を終わらせる。
僕はその場で感情的に怒鳴らなかった。
でも、スマホの中に残っている写真を見た。
事故直後の道路。
壊れたバイク。
救急搬送された時の記録。
診断書。
警察とのやり取り。
保険会社の書類。
そこには全部残っていた。
「大したことない」では済まない現実が。
僕は思った。
交通違反を軽く見る人は、違反そのものしか見ていない。
でも被害者は、その先を生きる。
痛みを抱えて起きる朝。
通院のために予定を変える日。
壊れた物の修理。
働けない時間。
家族の心配。
もう一度バイクに乗る時の恐怖。
その全部を背負うのは、軽く言った側じゃない。
ぶつけられた側だ。
事故の相手がどんな言い訳をしたのか。
詳しいことをここで全部書くつもりはない。
ただ一つだけ言える。
センターラインを越えてきた車と正面衝突した時、僕には選択肢なんてなかった。
避けたくても避けられない瞬間がある。
どれだけ気をつけていても、向こうから危険が飛び込んでくることがある。
だからこそ、運転する側には責任がある。
「少しだけ」
「急いでいただけ」
「みんなやっている」
「捕まらなければいい」
そんな言葉で済ませていいものじゃない。
ハンドルを握るということは、誰かの命の近くを走っているということだ。
僕は今でも、あの日の衝撃を覚えている。
救急隊の声。
担架の硬さ。
道路の熱。
周りのざわめき。
そして、自分の体が自分のものじゃなくなったような感覚。
あれを経験してから、「違反ぐらい」という言葉が本当に嫌いになった。
違反は、点数や罰金だけの話じゃない。
その先に、人がいる。
生活がある。
家族がいる。
仕事がある。
未来がある。
僕は運よく、生きている。
でも、それは「大したことなかった」という意味じゃない。
たまたま最悪の結果にならなかっただけだ。
その“たまたま”を、自分の都合よく軽く見る人がいる。
だから僕は、こう言いたい。
スピード違反ぐらい。
センターラインを少し越えただけ。
一瞬よそ見しただけ。
その“だけ”が、人を救急車に乗せる。
その“だけ”が、誰かの人生を止める。
事故のあと、僕は何度も記録を見返した。
写真も、書類も、通院の記録も。
そこに残っていたのは、ただの交通トラブルではなかった。
僕の日常が壊された証拠だった。
だから、もう黙らない。
交通違反を軽く言う人には、はっきり言う。
あなたにとっては「ぐらい」でも、被害者にとっては一生忘れられない。
道路の上で一番怖いのは、事故そのものだけじゃない。
事故を起こすかもしれない行為を、軽く考えている人間だ。
ハンドルを握るなら、忘れないでほしい。
その一瞬の油断が、誰かを担架の上に乗せることがある。
そして、その時になってからでは遅い。