電車に乗った瞬間から、嫌な予感はしていた。
朝の車内は、いつものように混んでいた。
吊り革につかまる人。
スマホを見る人。
目を閉じている人。
誰もが、少しずつ自分の場所を守りながら立っていた。
私もその一人だった。
ただ目的地まで、静かに乗っていたかった。
それだけだった。
すると、隣にいた中年女性の肘が、いきなり私の脇腹に入った。
ドン。
鈍い痛みが走った。
偶然かと思った。
混んでいる電車では、多少ぶつかることもある。
私は我慢した。
しかし、また来た。
今度は明らかに強い。
肘で押すように、こちらの体をどかそうとしてくる。
私は息を飲んだ。
「すみません、肘が当たっています」
できるだけ冷静に言った。
怒鳴ってはいない。
責め立ててもいない。
ただ、やめてほしかっただけだ。
すると女性は、こちらをにらんだ。
その目を見た瞬間、私はしまったと思った。
話が通じる相手ではない。
次の瞬間、女性は声を上げた。
「この人、触ってきた!」
車内の空気が凍った。
周囲の視線が、一斉にこちらへ向いた。
私は頭が真っ白になった。
肘で打たれたのは私だ。
注意したのも私だ。
それなのに、次の瞬間には私が痴漢扱いされている。
世界がひっくり返るとは、こういうことを言うのだと思った。
「違います。私は何もしていません」
そう言っても、女性は止まらなかった。
「触ったでしょ!」
「最低!」
「逃げないで!」
声だけが大きい。
事実はどこにもない。
でも、電車内では声の大きい方が一瞬で勝つ。
周りの人も困惑していた。
誰かが駅員を呼ぶと言った。
誰かがスマホを向けた。
私は手を上げて、何もしていないことを示した。
心臓が嫌な音を立てていた。
怒りより、恐怖が先に来た。
これで人生が壊れるのか。
たった数分で。
知らない女性の一言で。
駅に着くと、私はそのまま駅員に説明した。
警察にも事情を話した。
私は逃げなかった。
逃げる理由がなかったからだ。
防犯カメラを確認してほしい。
車内カメラを見てほしい。
私はそう伝えた。
脇腹の痛みも残っていた。
病院へ行き、診断書も取った。
肘打ちされた証拠。
私が痴漢をしていない証拠。
できることは全部集めた。
後日、車内カメラにはしっかり映っていた。
女性が私に肘打ちする様子。
私が注意する様子。
私が触っていないこと。
私が逃げていないこと。
全部だ。
私は少しだけ安心した。
これなら分かってもらえる。
そう思った。
甘かった。
刑事告訴した。
傷害。
侮辱。
身動きを封じられたような状況。
そして痴漢にでっち上げようとした行為。
私は、さすがに何らかの形で責任を問われると思っていた。
少なくとも、事実は明らかになるはずだと。
しかし、届いた通知にはこう書かれていた。
不起訴。
私は紙を見たまま、しばらく動けなかった。
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