朝、田んぼの様子を見に行った時だった。
昨夜の雨で、あぜ道は少しぬかるんでいた。
水面には薄く空が映り、苗の間を風が渡っていく。
私は長靴の泥を気にしながら、いつものように水位を確認していた。
すると、足元に白い紙が落ちているのに気づいた。
最初は、風で飛んできたチラシかと思った。
でも、近づいて拾い上げた瞬間、妙に胸がざわついた。
紙には、こう書かれていた。
「田んぼの持ち主様へ」
私宛てだった。
その時点で、嫌な予感がした。
農地に関する苦情か。
草刈りか。
水路か。
それとも車の出入りか。
私は少し身構えながら続きを読んだ。
「カエルの鳴き声による騒音に毎年悩まされています」
一瞬、意味が入ってこなかった。
カエル。
鳴き声。
騒音。
私は紙を持ったまま、田んぼを見た。
確かに、夜になると鳴く。
それは鳴く。
この季節の田んぼでカエルが鳴くのは、もう風物詩みたいなものだ。
子どもの頃から聞いてきた音だった。
梅雨前の湿った夜。
遠くの田んぼから響く声。
それを聞くと、ああ今年もそんな季節かと思う。
しかし、この紙の主にとっては違ったらしい。
「鳴き声が煩くて眠ることができず非常に苦痛です」
文字は丁寧だった。
怒鳴り散らすような文面ではない。
でも、内容はなかなか強かった。
眠れない。
非常に苦痛。
騒音対策をお願いします。
私は思わずつぶやいた。
「……カエルに?」
田んぼの真ん中で、私は紙を見つめたまま固まった。
騒音対策。
何をすればいいのか。
カエルに注意するのか。
夜十時以降は合唱禁止と書いた看板を立てるのか。
「近隣住民より」の最後の一文が、やけに重く見えた。
私は笑いそうになった。
でも、完全には笑えなかった。
書いた人は本気なのだ。
毎年悩まされていると書いてある。
眠れないほど苦痛だと書いてある。
その人にとっては冗談ではない。
ただ、こちらからすると、どうにも現実感が薄い。
田んぼをやっている以上、水を張る。
水を張れば虫も来る。
虫が来ればカエルも来る。
カエルが来れば鳴く。
それは自然の流れだ。
私が夜中にカエルを集めて指揮棒を振っているわけではない。
合唱団を雇っているわけでもない。
「本日の演目、カエルによる大合唱です」
そんなつもりは一切ない。
私は紙を持って家へ戻った。
台所で妻に見せた。
妻は最初、普通の苦情だと思って読んでいた。
途中で眉が動いた。
そして最後まで読んで、しばらく黙った。
「……カエル?」
「うん」
「うちの?」
「たぶん、うちの田んぼにいるカエル」
妻は困ったように笑った。
「それはまた、難易度高いね」
本当に高い。
草なら刈れる。
水路なら掃除できる。
農機の音なら時間を調整できる。
でも、カエルだ。
相手は自然界の住民である。
こちらの勤務表に従ってはくれない。
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