夫のスーツをクリーニングに出そうとしたのは、ただの偶然だった。
週末の朝。
洗濯物を分けて、ワイシャツを畳んで、いつものように夫のスーツのポケットを確認した。
小銭。
レシート。
名刺。
たまに出てくるガムの包み紙。
それくらいだと思っていた。
でも、その日は違った。
内ポケットの奥に、くしゃくしゃに折られた白い紙が入っていた。
何気なく広げた瞬間、指先が止まった。
「お客様のお部屋は406号室です」
その下には、はっきりと印字されていた。
休憩。
4時間。
7,260円。
一瞬、意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
頭の中で、必死に別の理由を探した。
誰かにもらっただけ。
会社の人のものを間違えて持って帰っただけ。
何かのメモかもしれない。
でも、そんな都合のいい言い訳は、紙の中の数字が全部壊していった。
406号室。
休憩4時間。
7,260円。
夫がその日、私に言った言葉を思い出した。
「今日は残業で遅くなる」
帰ってきたのは、夜の十時すぎ。
疲れた顔をして、ネクタイを緩めながら、
「もうクタクタだよ」
そう言っていた。
私はその時、温め直した夕飯を出した。
「お疲れさま」
そう言った。
あの時の自分を思い出して、胃の奥が冷たくなった。
怒りより先に、悔しさが来た。
叫びたい。
問い詰めたい。
紙を夫の顔に投げつけたい。
でも、私は動かなかった。
深く息を吸った。
そして、スマホを取った。
紙の全体。
部屋番号。
料金。
時間。
できるだけ影が入らないように、何枚も撮った。
それから紙をきれいに伸ばして、封筒に入れた。
封筒には何も書かなかった。
ただ、引き出しの奥にしまった。
その日の夜。
夫はいつも通り帰ってきた。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
私は振り返った。
「おかえり」
自分でも驚くほど普通の声だった。
夫は何も気づいていない。
手を洗い、ソファに座り、スマホを触りながらテレビを見ていた。
その横顔を見て、私は思った。
この人は、どんな顔で嘘をついていたんだろう。
私は夕飯を出した。
夫はいつも通り食べた。
「今日の味噌汁、ちょっと薄いね」
その一言で、箸を握る手に力が入った。
薄いのは味噌汁じゃない。
あなたの罪悪感だ。
そう言いたかった。
でも言わなかった。
まだ早い。
感情で動いたら、こっちが損をする。
私はその夜、夫が寝たあとで、カレンダーを見た。
紙が入っていたスーツを着ていた日。
夫が「残業」と言った日。
LINEの履歴。
帰宅時間。
財布の中のレシート。
カード明細。
ひとつずつ確認した。
すると、少しずつ形が見えてきた。
その日、夫は会社を定時で出ていた。
同僚とのやり取りに、それが残っていた。
「今日は早く上がれそう」
そう書いていた。
でも私には、
「残業で遅い」
と言っていた。
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