京成上野駅のエスカレーターに乗った時、私は何も特別なことを考えていなかった。
旅行帰りだった。
手にはスーツケース。
肩には荷物。
少し疲れていたけれど、あとは電車に乗るだけ。
いつもの駅の、いつもの流れだった。
エスカレーターには数人が乗っていた。
前にも人がいる。
後ろにも人がいる。
私はスーツケースの持ち手を握り、段差に気をつけながら立っていた。
その時だった。
背後から、変な音がした。
ドン。
ガタン。
人の足音ではない。
荷物が落ちた音とも違う。
何か大きなものが、段差を跳ねるように落ちてくる音。
私は反射的に振り返った。
次の瞬間、血の気が引いた。
上から、大柄な外国人男性が転がり落ちてきていた。
体勢を崩したのか。
足を滑らせたのか。
詳しいことは分からない。
でも、その体はエスカレーターの段差にぶつかりながら、こちらへ向かって落ちてきていた。
一瞬だった。
逃げる時間なんてなかった。
横に避けようにも、エスカレーターの幅は限られている。
前には人がいる。
後ろからは男性が落ちてくる。
私はとっさに、スーツケースを前に出した。
受け止めるというより、食い止めるしかなかった。
ガンッ。
ものすごい衝撃が手に来た。
スーツケースが大きく揺れた。
持ち手がしなり、角が段差にぶつかった。
私は両手で必死に押さえた。
「止まって、止まって……!」
声にならない声が喉の奥で詰まった。
もし、このまま男性が下まで転がり落ちたら。
前にいる人を巻き込んだら。
頭を打ったら。
首をやったら。
本当に、命に関わるかもしれない。
そのくらいの高さと勢いだった。
ようやく動きが止まった時、私の腕は震えていた。
男性は何とか起き上がろうとしていた。
周りの人も驚いていた。
誰かが駅員を呼びに行った。
私はスーツケースを見た。
角が割れていた。
持ち手の部分もおかしい。
さっきまで普通に使えていたものが、一瞬で壊れていた。
でも、その時はスーツケースどころではなかった。
人が大怪我しなかったこと。
前の人を巻き込まなかったこと。
それだけで頭がいっぱいだった。
男性は立ち上がると、困ったような顔をした。
そして、私のスーツケースを見て、片言の言葉で謝った。
「ごめんなさい」
そこまでは、まだ分かる。
事故だったのかもしれない。
わざとではないのかもしれない。
でも次の瞬間、男性は財布から紙幣を出した。
差し出されたのは、20ユーロ。
私は一瞬、意味が分からなかった。
「これで」
そんな雰囲気だった。
謝罪。
補償。
終わり。
男性の中では、そういうことらしかった。
私は壊れたスーツケースを見た。
角は割れている。
持ち手も曲がっている。
このまま旅行用として使えるかも怪しい。
それなのに、20ユーロ。
しかも日本円ですらない。
私は思わず聞いた。
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