夫と暮らしていると、一日はゆっくり進むようで、急に崩れる。
朝、同じことを三回聞かれる。
昼、さっき食べたご飯を忘れる。
夕方、私の顔を見て少し迷う。
「……誰だっけ」
そう言われた日は、胸の奥が静かに割れる。
怒りたいわけじゃない。
責めたいわけでもない。
夫が悪いわけではない。
分かっている。
分かっているのに、涙が出そうになる。
認知症というものは、記憶だけを奪っていくのではない。
一緒に過ごした時間の形まで、少しずつ変えてしまう。
夫は昔、口数の多い人ではなかった。
愛してるなんて、簡単に言う人でもなかった。
結婚記念日も、特別な演出はしない。
花束より、帰りに買ってきた大福。
高級レストランより、家で食べる焼き魚。
そんな人だった。
でも、不器用な優しさはあった。
寒い日は、私の湯のみだけ先に温めてくれた。
買い物帰りには、重い袋を何も言わずに持ってくれた。
私が疲れている時は、黙って洗い物をしてくれた。
「ありがとう」と言うと、
「別に」
それだけ。
でも、背中は少し照れていた。
そんな夫が、少しずつ変わっていった。
最初は小さな忘れ物だった。
財布を置いた場所が分からない。
約束の日を間違える。
同じ話を繰り返す。
年のせいだと思った。
疲れているだけだと思いたかった。
でも、ある日、夫が玄関で立ち尽くしていた。
「ここ、うちか?」
その一言で、私は現実から逃げられなくなった。
病院へ行き、診断を受けた。
説明は丁寧だった。
進行。
症状。
介護。
生活の工夫。
先生の声は聞こえていた。
でも、私の中では別の音がしていた。
これから夫は、私を忘れていくのだろうか。
私たちの結婚生活も、子どもたちのことも、旅行のことも、喧嘩した夜も、仲直りした朝も。
全部、少しずつ遠くなるのだろうか。
帰り道、夫はいつもと同じように歩いていた。
私はその横顔を見ながら、手をつなぐべきか迷った。
いつもなら照れて嫌がる。
でも、その日は黙って手を差し出した。
夫は不思議そうに見たあと、ぎゅっと握り返してくれた。
その手の温かさに、私は泣きそうになった。
家での生活は、だんだん変わった。
薬の管理。
予定表。
名前のラベル。
玄関の鍵。
ガスの確認。
一つ一つ、私が見守ることが増えた。
夫は時々、申し訳なさそうに笑った。
「迷惑かけるな」
私はそのたびに首を振った。
「迷惑じゃないよ」
本当は大変だった。
眠れない夜もあった。
怒ってしまった日もある。
同じ質問に、優しく返せない時もあった。
そのあと、自己嫌悪で台所に立ったまま涙が出た。
でも、夫はそれも忘れる。
私だけが覚えている。
それが、少しずるいと思った。
ある日、部屋を片づけていた時だった。
引き出しの奥から、一冊のノートが出てきた。
古いノート。
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