豪雨の夜だった。
帰宅した瞬間、隣の駐車スペースを見て思わず足が止まった。
隣の車の窓が、全開だった。
しかも小雨ではない。
空が割れたような土砂降りだ。
このまま放っておけば、車内は確実に水浸しになる。
私は一瞬迷った。
人の車に触るのは、正直気が引ける。
あとで「勝手に触った」と言われる可能性だってある。
それでも、この雨量だ。
放置すれば、シートも電装も完全にやられる。
私は一度、隣の家のインターホンを押した。
……反応なし。
もう一度押す。
やはり不在らしい。
空を見上げると、雨はさらに強くなっていた。
「これはさすがにまずいな…」
私はポケットを探った。
仕事帰りだったので、工具バッグの中にマスキングテープが入っている。
跡が残りにくいタイプだ。
「とりあえず、雨だけでも防ぐか…」
私はそっと車に近づき、窓の上部にマスキングテープを軽く貼って、隙間を固定した。
完全ではないが、これなら雨はかなり防げる。
数分後には、車体を叩く雨音がさらに激しくなった。
「やっておいてよかった…」
そう思いながら、私は家に入った。
――その夜は、ずっと雨だった。
翌朝。
空は嘘のように晴れていた。
私は出勤前に、ふと隣の車を見た。
「もう雨も止んだし、テープ外しておくか」
そのままにしておくと逆に失礼かもしれない。
そう思い、私は車に近づいた。
テープをゆっくり剥がす。
……その時だった。
「バリッ」
嫌な音がした。
「え?」
見てみると、ほんのわずかだが
塗装が一部剥がれている。
私は一瞬固まった。
「うそだろ…」
マスキングテープだから大丈夫だと思っていた。
だが塗装の状態によっては、こういうことも起こるらしい。
どうしようかと考えていると――
背後で車の音がした。
振り向くと、隣の車の持ち主がちょうど帰ってきたところだった。
そしてすぐに車を見て、眉をひそめた。
「……あれ?」
次の瞬間、こちらを見た。
「ちょっと!」
嫌な予感がした。
「それ、何してるんですか?」
私は正直に答えた。
「昨日、窓が開いていて大雨だったので…雨が入らないようにテープを…」
だが、隣人の顔色が一気に変わった。
「は?」
車体を指さす。
「これ、塗装剥がれてますよね?」
空気が一瞬で変わった。
「もしかして…あなたがやったんですか?」
私は慌てて説明した。
「いや、昨日の雨で車内が濡れないように…」
しかし相手は完全に疑いの目だ。
「勝手に人の車触るとかありえないんですけど」
「これ修理代かかりますよ?」
完全に加害者扱いだった。
確かに塗装は剥がれている。
状況だけ見れば、そう思われても仕方ない。
だが、私は落ち着いて言った。
「防犯カメラ、確認しますか?」
隣人は少し驚いた顔をした。
実は、うちの玄関の上には
駐車場を映す防犯カメラが設置されている。
私はスマホで映像を呼び出した。
再生すると――
画面には昨日の夜の映像。
激しい雨。
隣の車。
全開の窓。
そして私がインターホンを押している姿。
反応がないことを確認して、
雨を防ぐためにテープを貼っている姿。
すべて映っていた。
しばらく沈黙。
隣人の表情が変わる。
もう一度映像を見て、小さく言った。
「……昨日こんな雨だったんですね」
そして車内を覗き込む。
シートは乾いている。
もし窓が開いたままだったら――
確実に水浸しだっただろう。
隣人は深く息を吐いた。
「……すみません」
さっきまでの強い口調とは別人のようだった。
「完全に勘違いしてました」
私は首を振った。
「いえ、勝手に触ったのは事実なので…」
数日後。
隣の家のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、隣人が立っていた。
手には菓子折り。
「この前は本当にすみませんでした」
「車、全然濡れてませんでした」
あの豪雨を思い出す。
もしあのまま放置していたら――
あの車の中は、間違いなく大惨事だった。
私は菓子折りを受け取りながら、少し笑った。
善意って、時々トラブルの原因にもなる。
でも。
あの日の雨を見て、
何もしない選択はできなかった。